私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
NHK BSプレミアムで、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 ~家族編~』に於いて、
小林正樹・監督の『人間の條件』が過ぎし8月15日の月曜日から昨夜の20日まで、
毎夜放送された映画を視聴した。
この作品は五味川純平・著作『人間の條件』の巨編を映画化し、
全6部構成として、第一部 ・純愛篇、第二部・激怒篇として1959年1月15日に同時上映され、
第三部・望郷篇、第四部・戦雲篇は、この年の1959年11月20日に同時上映され、
その後の第五部・死の脱出篇、第六部・曠野の彷徨篇は1961年1月28日に同時上映された大作である。
そして全6部の総上映時間は9時間半となり、この当時として空前の最長の映画作品となり、
後年に本作の全6部を一挙に上映したことが、
日本の映画館でのオールナイト興行の走りと話題にもなった巨編と知られている。
今回、NHK BSプレミアムで、放送した構成は、
各部を毎夜連続に放送したので、6日間に及び私は視聴したのである。
そして昨夜、最終の第六部・曠野の彷徨)を視聴した後、
感動を新たに深めて、ぼんやりと映画館で初上映された1959年の頃に思いを馳せたりした。
この当時の私は、中学2年生で、
小学3年の頃から独りで映画館に通い、映画に熱愛した映画少年であった。
小学生の頃は、東映の時代劇3本立の作品をこよなく見たり、
ときには市川崑(いちかわ・こん)の監督『ビルマの竪琴(1956年)』に感動に震えたりしたが、
この当時頃から流行った石原裕次郎の出演した作品は苦手となり、
殆ど洋画の作品を見ることが多くなった時代であった。
そして『人間の條件』第一部 、第二部が1959年1月に同時上映され年は、
私は洋画の『リオ・ブラボー』、『大いなる西部』、『騎兵隊』、『ワーロック』、『ヘンハー』など、
その後は高校生になると『アラモ』、『太陽がいっぱい』、『バファロー大隊』、『渚にて』、『栄光への脱出』、青春物とか、
リバイバル上映として『風と共に去れぬ』、『駅馬車』、『禁じられた遊び』などを観たりしていた。
こうした時に、黒沢明(くろさわ・あきら)監督の『椿三十郎(1962年)』、『用心棒(1961年)』の二本立てを、
映画館で観て、特に『用心棒』に圧倒的に感銘して、
日本の映画も凄い、と私は評価を改めて、
これ以降は、邦画も洋画も益々熱中したのであった。
こうした経過であったので、無念ながらリアルタイムで、『人間の條件』は見逃していたのであった。
この後、私は益々映画に深く魅了され、邦・洋の名作を映画館に通い鑑賞し、
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
私はシナリオライターになりたくて大学を中退して、
映画専門誌の『キネマ旬報』の作品評論、シナリオを精読していた。
そして、ある養成所の演出科に通い始めた頃であった。
確か1964〈昭和39〉年の晩秋だったと思われるが、
池袋にあった人世座という名画を上映する映画館で、この当時に『人間の條件(全六部作)』を土曜日の夜に、
オールナイトで上映していた。
遅ればせながら私は見逃した作品であったので、心身気合いを入れて、この映画館に行き、
観賞し、その次週も観たのであった。
この当時の私は、小林正樹監督に敬愛を始めた頃であり、
少なくとも『あなた買います(1956年)』、『黒い河(1956年)』、『切腹(1962年)』を鑑賞した後なので、
この『人間の條件(全6部作)(1959~1961年)』は、
映画の作品を完成させるまでの、あらゆる執念を多々学んだりした。
この後は『怪談(1965年)』にも魅せられて、
東宝の宣伝部にも出入りしていた時期であったので、この『怪談』の大きなポスターを頂き、
実家の自室の四畳半の壁に貼り付けて、ときおり見惚(みと)れていた。
この後の私は、映画・文学青年の真似事も敗退し、
やむなく安定したサラリーマンの身に転向し、
その後は35年ばかり音楽業界のある会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。
この間、小林正樹監督の作品としては、数多くサラリーマンと同様に、私も多忙の中、
『上意討ち 拝領妻始末(1967年)』、『東京裁判(1983年)』を鑑賞し、
もとより私にとっては、敬愛できる映画監督の10人の中のひとりある。
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NHK BSプレミアムで、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 ~家族編~』に於いて、
小林正樹・監督の『人間の條件』が過ぎし8月15日の月曜日から昨夜の20日まで、
毎夜放送された映画を視聴した。
この作品は五味川純平・著作『人間の條件』の巨編を映画化し、
全6部構成として、第一部 ・純愛篇、第二部・激怒篇として1959年1月15日に同時上映され、
第三部・望郷篇、第四部・戦雲篇は、この年の1959年11月20日に同時上映され、
その後の第五部・死の脱出篇、第六部・曠野の彷徨篇は1961年1月28日に同時上映された大作である。
そして全6部の総上映時間は9時間半となり、この当時として空前の最長の映画作品となり、
後年に本作の全6部を一挙に上映したことが、
日本の映画館でのオールナイト興行の走りと話題にもなった巨編と知られている。
今回、NHK BSプレミアムで、放送した構成は、
各部を毎夜連続に放送したので、6日間に及び私は視聴したのである。
そして昨夜、最終の第六部・曠野の彷徨)を視聴した後、
感動を新たに深めて、ぼんやりと映画館で初上映された1959年の頃に思いを馳せたりした。
この当時の私は、中学2年生で、
小学3年の頃から独りで映画館に通い、映画に熱愛した映画少年であった。
小学生の頃は、東映の時代劇3本立の作品をこよなく見たり、
ときには市川崑(いちかわ・こん)の監督『ビルマの竪琴(1956年)』に感動に震えたりしたが、
この当時頃から流行った石原裕次郎の出演した作品は苦手となり、
殆ど洋画の作品を見ることが多くなった時代であった。
そして『人間の條件』第一部 、第二部が1959年1月に同時上映され年は、
私は洋画の『リオ・ブラボー』、『大いなる西部』、『騎兵隊』、『ワーロック』、『ヘンハー』など、
その後は高校生になると『アラモ』、『太陽がいっぱい』、『バファロー大隊』、『渚にて』、『栄光への脱出』、青春物とか、
リバイバル上映として『風と共に去れぬ』、『駅馬車』、『禁じられた遊び』などを観たりしていた。
こうした時に、黒沢明(くろさわ・あきら)監督の『椿三十郎(1962年)』、『用心棒(1961年)』の二本立てを、
映画館で観て、特に『用心棒』に圧倒的に感銘して、
日本の映画も凄い、と私は評価を改めて、
これ以降は、邦画も洋画も益々熱中したのであった。
こうした経過であったので、無念ながらリアルタイムで、『人間の條件』は見逃していたのであった。
この後、私は益々映画に深く魅了され、邦・洋の名作を映画館に通い鑑賞し、
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
私はシナリオライターになりたくて大学を中退して、
映画専門誌の『キネマ旬報』の作品評論、シナリオを精読していた。
そして、ある養成所の演出科に通い始めた頃であった。
確か1964〈昭和39〉年の晩秋だったと思われるが、
池袋にあった人世座という名画を上映する映画館で、この当時に『人間の條件(全六部作)』を土曜日の夜に、
オールナイトで上映していた。
遅ればせながら私は見逃した作品であったので、心身気合いを入れて、この映画館に行き、
観賞し、その次週も観たのであった。
この当時の私は、小林正樹監督に敬愛を始めた頃であり、
少なくとも『あなた買います(1956年)』、『黒い河(1956年)』、『切腹(1962年)』を鑑賞した後なので、
この『人間の條件(全6部作)(1959~1961年)』は、
映画の作品を完成させるまでの、あらゆる執念を多々学んだりした。
この後は『怪談(1965年)』にも魅せられて、
東宝の宣伝部にも出入りしていた時期であったので、この『怪談』の大きなポスターを頂き、
実家の自室の四畳半の壁に貼り付けて、ときおり見惚(みと)れていた。
この後の私は、映画・文学青年の真似事も敗退し、
やむなく安定したサラリーマンの身に転向し、
その後は35年ばかり音楽業界のある会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。
この間、小林正樹監督の作品としては、数多くサラリーマンと同様に、私も多忙の中、
『上意討ち 拝領妻始末(1967年)』、『東京裁判(1983年)』を鑑賞し、
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