序 章
私の母は、広尾にある赤十字の病院で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998(平成10)年1月13日の深夜の1時過ぎに亡くなった。
そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。
年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた赤十字の広尾の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。
こうした状況の中、12日に帰宅した後、家内と夜の9時過ぎに食事し、少し呑んだりしていた。
長兄より連絡があったのは、10時過ぎであり、
長兄夫婦、私達夫婦が長兄の自動車でかけつけた。
母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をしていたので、何よりの慰めと思った。
そして甥の長兄の子供二人も到着後、真夜中の1時過ぎに、母は見守られるように死去した。
私の実家の長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父などで取り決めた。
仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、
ご近所のお方の尽力で、実家、周辺の雪かきをして頂いたりした。
そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたのである。
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。
第一章
母の実家は、明治の中頃、国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む富豪であるが、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気の出始めた芸者との交遊との結果、母が生まれた。
この頃の風潮として、当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された・・。
私の祖父の親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の実家に貰われてきたのは、一歳前で1921(大正10)年であった。
私の祖父は、農家で田畑、雑木林、竹林などがあり、使用人、小作人を手を借りて、
東京郊外のよくある旧家であった。
そして祖父は、男2人、女も4人の子を設けていたが、祖父の妻は末児が生まれた後、
まもなく亡くなった。
こうした中で、母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。
母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。
今の歳で云うと、13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝いをさせられたり、もとより田畑の作業も駆りだされていた。
後年、私が高校生になった時に感じたのであるが、確かに母の筆跡は綺麗な部類に入っている。
この時、母の級友であったひとりが都会議員となった時、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・
家柄も良かったけど・・大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と母は私に言った。
私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。
母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、
ため息をついたのを私は忘れない・・。
母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。
こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は父の弟、妹の4人と共に母屋の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思ったりした。
後年、母は看病の末、亡くなった祖父の弟や父の弟、
そして父の妹たちの婚姻などもあり、多くの冠婚葬祭もあって、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが・・と私に語ったことがある。
父が死去される前の1952(昭和27)年、私が小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、バケツに満たそうとしていた。
風呂桶に入れるために、つるべ落としのたそがれ時だった。
♪あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスの なやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思い出ワルツ
【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】
母がこの当時に流行(はや)っていた歌のひとつを小声で唄っていた。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。
母は幾つになって自覚されたのか解からないけれど、里子の身、
その後の祖父の長兄との結婚後、何かと労苦の多い中、
気をまぎらわせようと鼻歌を唄いながら、その時を過ごされたのだろう、
と私は後年に思ったりした。
1953(昭和28)年の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。
祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。
どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
このような時、翌年の春のお彼岸の近い日に、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。
母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が実の父の妹を同行してきた。
このうら若き方は映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも瞬時で感じたりした。
この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたいたからである。
私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたが、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、
日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。
『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。
そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。
私は汚れきった身なりであったので、恥ずかしさが先にたち、
地面を見つめていた。
私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。
この『水色のワルツ』、そして『芸者ワルツ』歌のふたつは、
私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。
(つづく)
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私の母は、広尾にある赤十字の病院で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998(平成10)年1月13日の深夜の1時過ぎに亡くなった。
そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。
年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた赤十字の広尾の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。
こうした状況の中、12日に帰宅した後、家内と夜の9時過ぎに食事し、少し呑んだりしていた。
長兄より連絡があったのは、10時過ぎであり、
長兄夫婦、私達夫婦が長兄の自動車でかけつけた。
母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をしていたので、何よりの慰めと思った。
そして甥の長兄の子供二人も到着後、真夜中の1時過ぎに、母は見守られるように死去した。
私の実家の長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父などで取り決めた。
仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、
ご近所のお方の尽力で、実家、周辺の雪かきをして頂いたりした。
そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたのである。
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。
第一章
母の実家は、明治の中頃、国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む富豪であるが、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気の出始めた芸者との交遊との結果、母が生まれた。
この頃の風潮として、当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された・・。
私の祖父の親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の実家に貰われてきたのは、一歳前で1921(大正10)年であった。
私の祖父は、農家で田畑、雑木林、竹林などがあり、使用人、小作人を手を借りて、
東京郊外のよくある旧家であった。
そして祖父は、男2人、女も4人の子を設けていたが、祖父の妻は末児が生まれた後、
まもなく亡くなった。
こうした中で、母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。
母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。
今の歳で云うと、13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝いをさせられたり、もとより田畑の作業も駆りだされていた。
後年、私が高校生になった時に感じたのであるが、確かに母の筆跡は綺麗な部類に入っている。
この時、母の級友であったひとりが都会議員となった時、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・
家柄も良かったけど・・大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と母は私に言った。
私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。
母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、
ため息をついたのを私は忘れない・・。
母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。
こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は父の弟、妹の4人と共に母屋の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思ったりした。
後年、母は看病の末、亡くなった祖父の弟や父の弟、
そして父の妹たちの婚姻などもあり、多くの冠婚葬祭もあって、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが・・と私に語ったことがある。
父が死去される前の1952(昭和27)年、私が小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、バケツに満たそうとしていた。
風呂桶に入れるために、つるべ落としのたそがれ時だった。
♪あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスの なやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思い出ワルツ
【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】
母がこの当時に流行(はや)っていた歌のひとつを小声で唄っていた。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。
母は幾つになって自覚されたのか解からないけれど、里子の身、
その後の祖父の長兄との結婚後、何かと労苦の多い中、
気をまぎらわせようと鼻歌を唄いながら、その時を過ごされたのだろう、
と私は後年に思ったりした。
1953(昭和28)年の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。
祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。
どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
このような時、翌年の春のお彼岸の近い日に、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。
母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が実の父の妹を同行してきた。
このうら若き方は映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも瞬時で感じたりした。
この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたいたからである。
私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたが、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、
日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。
『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。
そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。
私は汚れきった身なりであったので、恥ずかしさが先にたち、
地面を見つめていた。
私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。
この『水色のワルツ』、そして『芸者ワルツ』歌のふたつは、
私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。
(つづく)
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