夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ブログに掲載する写真、揺れる思いを過ぎた今、私は微笑みながら・・。

2023-04-16 13:15:39 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の78歳の身であるが、
過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職して、多々の理由で年金生活を始めて、
まもなく偶然にブログの世界を知ったりした。

そしてパソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、
原則として、日に一通は投稿してきた。

                              
               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                                                 
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。



こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。

そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。                                   

ここ一カ月前の頃より
、反省をして、初心に帰れと、随筆風の投稿文に回帰している。

                       



こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、

投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは10年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。


このような心情のある私は、カット代わりに写真を掲載できた頃を、
改めて思い馳せたりした・・。



この2012年の当時、私と同世代の60代の御方の
多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ6年ぐらい殆どの方が、それぞれ心ある写真を添付し、
私はいつまでも文章だけでは、時流に残されてしまう私なりに憂慮していた。

特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧していた・・。

そして2012年10月下旬の時、私たち夫婦は、
北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間で滞在し、周辺を散策した。
そして旅から帰宅した後、いつものように投稿文を重ねた・・。

まもなく私の投稿文を読んで下さったひとりの女性からコメントを頂いた。
《・・それにしてもお写真がないのが、とても残念・・》
この女性はブログのコメント上で、この数年心の交流を重ねたひとりの御方で、
私は美麗な女性と想像を深めながら、何よりも心清らかな奥様であった・・。

やがて私は、喚起させられて、いま覚えなくて、いつになったら覚えるのょ、
と自身を叱咤激励しながら、ブログ上で写真を掲載をすることを決意した。

そして11月3日の『文化の日』の翌日の4日に於いて、
昼下がりのひととき、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した・・。

          

しかし無念ながら、私はネットの技量にも若葉マークの初心者であり、

どのようにしたら、ブログ上で写真を掲載することが出来るの、と思ったりした・・。

私はデジカメを定年退職の時の記念品と買い求めて、
四季折々の情景を撮り、プリントもせず、パソコンのハードディスクに、
ファイル名を付けて記憶させていた。


そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞う人もいなく、
やむなく加入している【gooブログ】の使い方の中に於いて、
《 画像入りの記事を投稿する 》の解説を読んだりした・・。

そして《【画像ファイル】
  ・goo ブログ標準
             ※画像の比率を保持し、320×240に収まるサイズに自動的に縮小されます

  ・オリジナルサイズ 
               ※縦サイズもしくは横サイズが1920pxを超えるまでは、
      縮小されずにアップロードされます 》

と明記されていたが、どのような意味合いも解らず、何とか一枚の写真を添付する投稿文ができた・・。

その後は、失敗も繰り返したりしながら、《オリジナルサイズ》で表示したが、
確かに鮮明であるが、プログ上に表示すると、
読んで下さる方には、画面一杯に表示してしまうので、
ご迷惑限りない、と大いに反省をしたりした。

そして《goo ブログ標準》の《 320×240に収まるサイズに自動的に縮小 》を活用し、
ブログ上の表示の時は、《大きな樹》のマークをクリックして、程ほどの大きさで表示させたりした。

その後は、
横並びに2葉の写真を掲載することも学び、
愚図の高齢者の私でも、何とか出来たんだ、と安堵を重ねて微笑んだりしたのは、
11月15日からであった・・。



しかしながら私はデジカメで撮る時は、画像サイズは殆ど4608X3456と設定してきたので、
この鮮明な写真を何とか、ブログ上で鮮度を保持しながら単純に縮小し、表示できる方法はないかしら、
と思案してきた。

この後、駅前の本屋に行った時、たまたまコンピュータ・コーナーに行き、
ひとつの本の背文字を見て、手にとってパラパラと内容を見たりして、驚いてしまった・・。
            
特に写真の専用の【Picasa(ピカサ)】を少し見て、
遅ればせながら学ぼうと買い求めた。


そして、『ピカサ』を読んだりしたが、
どうして海のように広く、奥深いの・・と溜息〈ためいき〉を幾たび重ねたりした・・。

まもなく私は、『ピカサ』におぼろげながら挑戦したが、
私のこれまでの写真は、パソコンの【ピクチャ】に保存しているので、
『ピカサ』を活用して縮小作業をした結果の写真と肝要の従来ある【ピクチャ】の写真と、
どう関連されるのか、少しボケた私は解らず、あえなく敗退してしまった。

この後、やはりブログ上で鮮明写真を掲載したく、写真サイズの変更方法をネット上で調べていた時、
私のパソコンのソフトの中で、『ペイント』という機能の言葉を初めて知り、
この『ペイント』を活用すれば、私の目的が達成できるのかしら、と思い挑戦した・・。

そして『サイズ変更』の画面に於いて、『パーセント』と『ピクセル』も詳しく知らず、
適当に設定した。

このように私は、ブログ上に写真を掲載する揺れる思いを過ぎ、
私の愛用しているコンパクトのデジカメで撮り、ブログ上に於いては『ペイント』を活用して、
掲載できたりした。

          

この後、この『ペイント』の機能を活用して、『サイズ変更』の画面に於いて、
『パーセント』を10に指定したり、ここ一年は9にして、ブログ上に掲載している。







そしてここ10年の投稿文に於いては、私が撮った季節に応じた写真を掲載して、
何かしら私の投稿文に於いては、欠かせない彩(いろど)る
写真となっている。

もとより私がブログ上で写真を掲載できたのは、

ある御方の優しいアドバイスであり、
ときおりお住いの方面の空に向かって、感謝の最敬礼をしたりしている。

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花の金曜日、過ぎしサラリーマン時代のささやかな思いを馳せれば・・。

2023-04-15 22:43:19 | 喜寿の頃からの思い

私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。


昨夜、最近はとみに曜日の感覚が薄らいでいるので、
ぼんやりとカレンダーを見ると、金曜日だったと教えられ、
やがて現役時代の連休前の金曜日の頃を思い馳せたりした・・。





私の現役時代は数多くのサラリーマンと同様に、

月曜日の早朝から業務に精進し、睡眠時間を削り、
金曜日の夜になると、やっと安息が得られる、といった心情であった。


私は大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしたりした後、
1970年(昭和45年)の春、ある民間企業に中途入社し、遅ればせながら社会人となった。
この頃の勤務形態は、隔週の土曜日が午前中勤務となっていた。

その後、何時ごろか完全5日制となって、金曜日の勤務が終わると、何かしらほっとした・・。

どなたが名付けたのかは知らないけれど、
連休前の金曜日を花の金曜日と称して、『花金』と省略し、
社内で花金だから・・と歓送迎会や懇親会を開催されたり、
仲良しグループで呑みに通ったりしていた。


業務が立て込んで夜の9時過ぎに会社にいると、
『忙しいのだったら・・明日の土曜日に会社に来て、じっくりと仕事をすればよいじゃない・・
ともかく・・いつものメンバーで待っているょ・・』
と気のおけない友人が電話を掛けたりしてきたので、
私は仕事を切り上げて、その場所に駆けつけたりした・・。

どなたも同じと思われるが人事異動のたびに、
歓送迎会が部課間で盛んに行われ、私も異動の折には開催してくれた。



50歳を迎えた頃から、人付き合いと体力も疲れ果てて、ある程度のつきあいとし、
私は自宅の最寄り駅の付近の居酒屋で、
毎週の金曜日の10時過ぎに、定期便のように独りでボケッと呑んだりした。

私は弐合徳利のその時に思いついた地酒を2本呑みながら、
板長の進めの単品を3品を食べたりした。
そして絣(かすり)を召した女将や仲居さん達にからかわれながら、
1時間半ばかり心の憩(いこ)いとしていた。

その後、55歳になると出向となってしまい、
勤務先が遠方の上、始業も早くなり、心身疲れきったので、 居酒屋に寄れる余裕もなくなった。
帰宅後、風呂に入った後、11時過ぎに家内と話し合いながら、
弐合徳利の純米酒を呑んだりした。


どの時代でもサラリーマンの方達は、
どなたも多忙な業務な勤務実態で成果を問われているが、
私は花金の夜のひとときは、秘かな息抜きで過ごしてきた・・。

退職後の今としては、遠い昔の出来事だった、と改めて感じている。




昨今は民間会社で成果主義の影響で、部署間はもとより、仲間うちでも競争が激しくなり、

ノミニケーションが薄らいでいる、と新聞、雑誌などで読んだりしたことがある。

その上、2007年のサブプライムローン問題で、世界的な経済悪化により、
より各民間会社のサラリーマンは厳しさが増しているので、

私達が過ごしてきた時代と余りにも違い、過酷な時代であると、憂いたりしている。

退職後の無力な私は、せめて花の金曜日ぐらいは、
料理を頂きながら、お酒を呑み、最近の出来事を公私含めて他愛なく、話し合ったりし、
職場上の交流として、憩(いこ)いのひととき、と長年思ったりしてきたので、
現役の諸兄諸姉は少し寂しくない、と思ったりしている。



しかし、このような職場の交流がなければ、
帰宅されて、いとおしい妻、或いは主人と、夕食を頂きながら、
気楽に語り合いながら、過ごされる。

或いは、お子様がいれば、ご家族で団欒のひとときは、

何よりの贅沢な花の金曜日かしら、と私は思ったりしている。

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ときにはパソコンの『写真』の整理、78歳の私は、ためらいながら・・。

2023-04-15 11:40:58 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、
ささやかに過ごしている。

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。




こうした中、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
私は独りで外出して、 自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、
季節のうつろいを享受している。

こうした時は、殆どデジカメをネクタイのように首回りから下げて、
颯爽と歩き、 歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。


そして無念ながら忘れることもあり、ときおりデジカメで撮ったりして、
記憶のかたみとしている。



2004年(平成16年)の秋に、定年後は、やむなく年金生活を予定していた私としては、
一眼レフのカメラだと、 レンズの買い増しなどの購入などでエスカレートすると費用も際限なくなるので、
やむなく断念し、 この当時としては高質とされていた800画素でズームレンズのあるカメラ一体型で、
程ほどの良質なキャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定することとした。
 
結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
総合教養雑誌の『サライ』でも賞賛されていたコニカミノルタの『DIMAGE A2』とした。
 
そしてデジカメ本体に、カメラ・ケース、充電器、リチウムイオン電池の予備、
記憶媒体はCF(コンパクト・フラッシュ)であるので、512MBを購入し、確かこの当時30万円を超えた。
 
このデジカメは、ズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
周遊観光などに参加した場合は、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフでレンズ交換をしたりすれば、
確かに私のデジカメは、構図が素早く決められ、機動力がある、と秘かに思ったりしていた。
 
 
この後もデジタルカメラの進化は、周知のとおり日進月歩となり、
技巧も乏しい私でも、新たなカメラに魅了されて、
ニコンの『クールピクス P510』を買い求めたりした。

                           
 
やがて2015年の晩秋、白内障の手術をして、
それまで
高校生より酷い近眼で、劣等感のひとつであったが、
多焦点眼内レンズの効力の為か、左眼、右眼も1・0前後となり、
55年ぶりにメガネが不必要となったりした。

これを記念に、デジカメも買い改めて、定年後
三代目となり、
初めての
1型センサー
のパナソニックの『LUMIX(ルミックス)
DMC-FZ1000』となったりした。

 
こうした中で、年金生活の午前中のひとときは、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲を散策していると、
季節の移ろいに魅了され、一期一会かしらと思いながら、情景を撮ったりしてきた。
 

 
 
或いは家内と共通趣味の国内旅行を幾たびも重ねる中、
その地の情景に圧倒的に魅せられて、撮ったりしてきた。
 
 
 
 
 
 
こうした中で、恥ずかしながら私は、齢を重ねるたびに忘れることもあり、
やむなく記憶のかたみ、として撮り続けてきた・・。
 
そして過ぎ去った日々の写真を見たりすると、
あんな情景があったのか、と愛惜を重ねたりしている。
 
何よりも驚いたのは、10年前の67歳だった私の表情が若く、
こればかりは・・と独り微苦笑をしたりしてきた・・。
 
                            
 
 
やがて一昨年の2020年の2月の初旬、デジカメを買い改めようかなぁ・・、と思案してきた・・。

こうした根底には、一昨年の12月初旬に本屋で視た、
家電批評の『デジカメ ビデオカメラがまるごとわかる本 2021』、
購読して、改めてデジカメも加速されて、進化していたことを学んだりした・・。

世の中は新コロナウィルスの烈風で閉塞感があり、
私も好きな国内旅行も、『三密(密集、密接、密閉)』の信義の前では、
つたない私でも天に唾(つば)をかける行為で、まぎれなく非国民に該当するので、
旅行はダメだよなぁ・・、我慢しながら断念してきた。
 


せめて衰えた心身を私自身を鼓舞させる為に、
デジカメを買い改めて、日常生活を活性化しょうと、
秘かに思案したりしてきた。

こうした根底のひとつには、
私は1944(昭和19年)の9月に農家の三男坊として生を受けて、
今年は数え年77歳となり、9月の誕生日を迎えて満77歳となり、
お祝いの言葉で表現すれば、『喜寿(きじゅ)』の年となる。

そして幸運にも、何とか「健康寿命」で迎えられるかしら、
と思ったりした・・。

こうした中で、デジカメは私の乏しい技巧でも、
少し背伸びした機種を選定しょう、と思い深めたりした。

私は一眼レフのAPSサイズの『ニコン』か『キャノン』の中級品の本体に、

18~300mmの望遠ズームレンズを思案していたが、
この当時もフルサイズが到来し、私も一代決心をして買い求めることに決意した。

そして2021年2月8日、ヨトバシカメラのマルチメディア吉祥寺店に行き、
本体は、 ソニーのデジタル一眼カメラα(アルファ)α7R III 
レンズはズーム型の好きな私としては、ソニーの24~240mm、
として、購入した。

やがて私は、
少年のような無我夢中となり、我が家の周辺などを撮ったりして、
と微笑んだりしている。

このように撮った写真は、パソコンのハードディスクに記憶させ、
安全対策として、外部のハードディスク装置にも収納している。

一年前の頃の一週間、写真の整理をしてきた・・。
年金生活17年半を過ごす中、写真は2万枚を超え、本格的に整理をしてきた・・。





我が家の近くに流れている野川の両岸にある遊歩道・・
四季折々に散策してきた情景を見たりしていると、
脳裏からひとつの歌が舞い降りてきた・・。
 
♪うつむきかけた あなたの前を
 静かに 時は流れ
 めぐる めぐる季節の中で
 あなたは 何を見つけるだろう

【 『季節の中で』 作詞、作曲・松山千春、唄・松山千春 】

とシンガーソング・ライターの松山千春さんの名曲のひとつを
心の中で唄いだしたのである・・。


川べりから観える水の流れ、付近の住宅街のそれぞれの樹木、草花が、
まもなく春は過ぎ去り、深緑の情景に変貌して、
やがて初夏を迎える・・。

このように思い馳せたりしていると、写真の整理は遅くなり、
独り微笑みながら、過ぎし日の出来事に愛惜を重ねたりしてきた・・。



昨日、午後のひととき、パソコンの『写真』の整理をした。

私のこれまでの写真は、パソコンの内部の【 ピクチャ 】に保存し、
万一の場合に備えて、外部ハード・ディスクにコピーしている体制としている。

しかしながらパソコンの反応が鈍(のろ)くなり、
やむなく写真の一部を破棄しようとした・・。

もとより事前に、パソコンの内部の【 ピクチャ 】を、
とりあえず2004年から2017年
までブルーディスク(BD-R)にコピーし、
8枚となり、こんなに撮ったの・・と我ながら微苦笑したりした。



やがてパソコンの内部の【 ピクチャ 】の2017年までの写真を削除した後、
パソコンの内部のハード・ディスクの再整備をしたりした。

そして私のパソコンは、Windooesに伴い、
添付されているソフトの『管理ツール』の『ドライブのデフラグと最適化』を活用して、
ハードディスクを効率化良くしたりした。

このようなことをしていたら、昨日の午後の大半、そして深夜に及び、
自身の思いで深い『写真』であるので、やむえないなぁ・・、
と微苦笑したりしている。

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心のふるさとのひとつ『神代植物公園』を散策し、心も身体も安らぎ・・。

2023-04-14 07:45:17 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
過ぎし日に、厚生労働省の公表によると、2016(平成28)年時点で、
日本人の健康寿命は、男性が72.14歳、女性が74.79歳と推計され、
平均寿命と健康寿命の差は、男性約9年、女性約12年と報じられている。

もとより「健康寿命」は、日常的に介護を必要としないで、
自立した生活ができる期間であり、何んとか男性の健康寿命の延長戦の最中かしら、
と思ったりする時もある。


しかしながら私の友人、知人の7人は、すでにあの世に旅立っているし、
或いは私より8歳ご年配の知人は、心身溌剌とされている御方もいて、
あくまで健康寿命も男性の平均であるよなぁ・・と思ったりしている。

こうした中で、そして好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。


私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に、
農家の三男坊として生を受けたりした。

やがて都心の高校に通学して以来、都心の底知れぬ魅力に圧倒的に魅了され、
通勤を含めて45年ばかり彷徨(さまよ)ったが、
定年後に年金生活を始めて、私の住む3キロ範囲を歩き廻るのが、何よりも心身安らぎを得ている。
            

そしてここ10数年、デパートに買物、懇親会、冠婚葬祭などで都心に出れば、
人出の多さに疲れ果て、やがて我が家の最寄駅のひとつ『成城学園前』駅に降り立つと、
何故かしら安堵している。

こうした中は、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園、住宅街を歩いたりし、
ときには45分ばかり歩くと深大寺があり、隣接した処に都立・神代植物公園があり、
年金生活の中、幾たびも尋ねたりしてきた。


 

私が自転車で通学した神代中学校があり、
この当時、近くに開園する前の都立・神代植物公園になる雑木林の地域があり、
私は自転車で、下校後に学友と周辺を自転車で廻ったりしてきた・・。

やがて私は、1960年(昭和35年)の春に卒業して、
そして1961年(昭和36年)秋に、開園になったりしてきた。


この後、季節の変わるたびに訪れてきた・・。

やがて2004年(平成16年)の秋、ある民間会社を定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めると、
月に2回ぐらい訪れて、季節の移ろいを享受されたりした・・。
 
こうした根底には、小学生の頃までの生家の情景を思い馳せて、
心のふるさとの情景・・思い重ねたりしてきた・・。



こうした思いもあり、昨日の午前中のひととき、市内にある都立の『神代植物公園』に向かった。


いつものように最寄り駅のひとつの京王線の『つつじが丘』の駅前より、
路線バスで調布市の『総合体育館前』で下車した後、

体育館前の広場を通り過ぎて、隣接の都立の『植物多様性センター』を散策し、
やがて都立の『神代植物公園』を数時間ぐらい遊学し、
この後は帰路の時に時折、『深大寺』に立ち寄り、参拝したりしている。



こうした中、今回は櫻花の時節は終わりを告げて、

数多く観られる落葉樹は、芽吹き、そして若葉の色合いは、
萌黄色から黄緑色にうつろい、昨今は新緑色に染められている。

或いは『シャクナゲ』、『ボタン』、『フジ』の花・・
多彩に咲き、陽春の時節となっている。



こうした中で、『ツツジ』の咲き始めて、公園内を彩っている。









このような百花繚乱のような中を歩き、心も身もゆだねて散策し、
やがて帰路に向かったりした・・。

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『ひらがら』入力の私は、殆ど一本指で早や40年が過ぎ、独り微苦笑をして・・。

2023-04-13 07:52:48 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
初めてコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、
1969年(昭和44年)の4月であった。

東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、

アルバイト、契約社員をしながら映画・文学青年の真似事をしていたが、やがて敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
コンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学び始めた時であった。

この当時は、パソコンはなく、ノート型の端末機もなく、
汎用のコンピュータ本体に連結したディスク・トップを端末機として使用していた。

私たち生徒は、概要の処理過程の流れ図(フロー・チャート)を作成した後、
詳細のプログラムを専用シートに書き、
ディスク・トップに向かい、不慣れな現在使用されているJIS規格のキー・ボートに打ち込んでいた・・。

この当時は、漢字、ひらがなの表示はない時代であり、

もっぱら英数字の時代であったので、覚束ない手で殆ど一本指で入力していた。




その後、1970年(昭和45年)4月に、この当時は大手の映像・音響メーカーの民間会社に中途入社した後、
まもなくこの会社の中で、音楽事業本部の中の一部の大きなレーベルがレコード会社として独立し、
私も新たなレコード会社に転属させられた。

やがて翌年の1月、本社のコンピュータ専任者として配属され、
システムの開発、運営などを元所属していた音楽事業本部のシステムを活用させて頂きながら、
この音楽事業本部の部署の指導を受けながら、管理していた。


そして処理を委託していたIBMのデータセンターで、
月次作業の時に出向き、端末機のディスク・トップに向かい、
修正データなどを打ち込んだりしていた。


この後、元所属していた大手の映像・音響メーカーの情報センターに、処理を委託したりした。


この間に、パソコンが世の中に出始めて、確か1982年(昭和57年)の頃であった記憶しているが、
私もNECのPC8801を自宅用に購入し、フロッピー・ディスク装置、プリンター、
そして漢字対応させる為に漢字ロムを付加させたりした。

この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私としては高価なパソコン・セットであった。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、新古今和歌集を入力したりしていた。



この後、1983年(昭和58年)からは、首脳部の指示で、すべて自社処理となり、
この当時に流行ったオフィス・コンピュータを導入して、
コンピュータ・ルームを設けて頂き、端末機のディスク・トップ型、ノート型を配置し、
開発、部分改定のプログラムを思考しながら、入力したりしていた。

この時、右手にポール・ペンを握り、いつでもメモ書きができるように、
キー・インは殆ど右手の中指を使っていたのである。
そして運営の処理の指示、データ入力をしていた・・。

このオフィス・コンピュータは、この当時の頃から漢字、ひらがなを表示でき、
もとより漢字対応のプリンターの時代となっていた。

そして住所マスターの追加・訂正などの入力方法は、『ひらがな』で、単漢字の方式であった。
たとえば・・・盛岡市の場合、
『さかり』とかで入力して、幾つかの漢字が表示されて、この中から選ぶ。

そして次の『おか』とかで入力して・・
いずれにしても昨今のように、『もりおかし』と一度で表示ができなかった時代であった。

私は、この時の『ひらがな』固定方式を習得してしまい、
この後に『ローマ字』方式も可能となったが、
単細胞の私は転進できず、今日に至っている。


この間、世の中はワープロが普及していたので、
私も購入し、会社で文書を作成したり、自宅で年賀状などに利用し、
やはり入力方法は『ひらがな』であった。

そして20年ばかり情報畑から管理畑に異動させられた私は、
机上に配置されたノート型の端末機に、適時に入力したり、検索したりしていた。

或いは私が新たに買い求めたノート・パソコンを開き、表計算を活用して
資料を作成したりしていた。

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めて、まもなくブログの世界を知り、
殆ど毎日ブログの投稿文を綴っている。



そして恥ずかしながら、相変わらず『ひらがな』入力で、
殆ど右手の中指で投稿文を入力しているが、キー・ボードに触れて54年が過ぎ、
『ひらがな』入力で、40年が過ぎているので、程ほどに早いかしら、と微苦笑したりしている。

このようなことを綴っていたら、亡き歌手の岸 洋子さんが、
『一本指のシンフォニー』の歌があったなぁ、と思い馳せてしまった・・。

確か私も所有していたレコードの一枚に、『ラ​ス​ト​・​ラ​イ​ブ​!​ 岸​洋​子​リ​サ​イ ​タ​ル​'​9​1』のアルバムで、
幾たびか愛聴していたことも思い重ねてしまった。

ピアノを両手の指で上手に弾けないけれど、たった一本の指で奏でる・・
このような主旨であったことを私は記憶している。



私も準拠して、殆ど一本の指で、『ひらがな』入力ながら、
確かなエッセイを綴りたくて、毎日ように投稿文を重ねているが、
いつになったら、確固たる随筆が綴れるの・・ときおり溜息しながら入力している。

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遅ればせながら我が家も、アマゾンを活用して、私たち夫婦は微苦笑して・・。

2023-04-12 09:59:43 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、
世の中は、買い物で通販を利用される御方が多く、
我が家は苦手意識があり、昨年の5月まで極力さけてきた・・。

確か30数年の頃、最寄り駅の近くにある本屋が3店あったりしたが、
2店が、閉店となったりした。

私は風の噂として、アマゾンが書店サービスを開始して、
顧客からの注文を受けて、ある指定の本屋の卸店より、
直接にお客様に配送され、あわれ中小の本屋さんは廃業された、と聞いたりした。

街に本屋があることは文化のひとつと思っている私は、
憂い悲しんできた・・。

その上、アマゾンは日本で売上げても、法人税を回避して、
本国のアメリカで調整していると風の噂で知り、
日本で売上、利益はアマゾン・ジャパンが申告するのが、
企業としての心の節度として望ましい、と思ったりしてきた・・。

このような心情のある私は、アマゾンは天敵と思い、避けてきた・・。



我が家は家電に関しては、『ヤマダ電機』か『ビックカメラ』、
デジカメは『ヨドバシカメラ』に行き、
現品を確認した上で、配達をして頂いた。


確か昨年の6月、30数度の熱い日、たまたま我が家の『電子レンジ』が故障した・・。

確か20年ぐらい愛用してきたが、やむなく買い改めようとした・・。

私たち夫婦が、たとえば最寄りの『ヤマダ電機』か『ビックカメラ』のお店に行くのは、
我が家より路線バスを利用して、お店で現品を確認して、買い求めてきたが、
高齢者の私たち夫婦が熱い中を出かけるのは、人出の多い中、感染も怖い上、
熱中症になったら大変・・と思案したりした。

こうした中、家内の妹が家内に通販は便利ょ・・と話してきたことを思いだし、
やむなく私は、初めてアマゾンの公式サイトを開き、家内に機種を選定してもらい、
まもなく発注した。

やがて翌日の午前中に、我が家に配達され、
私たち夫婦は、通販の利便性に驚きながら微笑んだりした・・。



そして昨年の夏は、35度前後の猛暑日も多々あり、
『扇風機』、『掃除機』、『物干しスタンド』など買い改め、
アマゾンで活用してきた・・。

我が家は、昨年の春まで、アマゾンの活用は考えたこともなかったので、
私たち夫婦は驚いたりした・・。


こうした中、昨年の6月頃、『浴室』、『洗面所』、『トイレ』だけ、
リフォームしょうと私たち夫婦は決意して、やがて8月初旬に完了した。

『浴室』に関しては、築後44年の当初より、
ステンレス製の浴槽、バランス釜を3回ばかり改定してきたが、
やはり高齢者の体力の衰えを配慮して、最新のユニットバスにリフォームした。

明るくなった浴室の中で、私は旅先のホテルの浴室を思い重ねて、
微笑みながら、身も心も預けてきた・・。

『トイレ』に関しては、最新型にして、便座に温かくなり、
手すりを付けて頂き、私は何かと助かるょ・・と独り微笑んだりしてきた。


この間、我が家は思いがけない難題が発生して、
やむなくアマゾンより、『 避難用防災トイレ』を購入した。

我が家は浴室、洗面所、トイレだけを2週間でリフォームしたが、
この間、トイレに関して、2日間は日中使用できない工事となったりした。

男性の私は、早朝に長い方は済ませて、
あとのオシッコは買物のスーパー、コンビニ、

或いは最悪の場合は、我が家の庭の片隅で済ませることはできる。

しかしながら家内の身を案じて、アマゾンを活用して、購入したりした・・。


『サンコー 非常用 簡易トイレ エコ 避難用防災トイレセット』
【排泄処理袋 凝固剤付 5回分付】 
携帯 防災 災害 日本製 耐荷重120kg 長期保存 

我が家はリフォームしたお陰で、防災用のトイレセットが整い、
私たち夫婦は、お互いに微苦笑したりした。

こうした体験もあり、アマゾンは何でも販売している・・、
と私たち夫婦は、驚きながら微苦笑したりしてきた。



そして洗剤、柔軟剤などの重い品は、私の体力を配慮して、
アマゾンより購入している。

本年、私たち夫婦は晩秋期に備えて、居間、寝室など、
見直して、やむなく改定し、木枠の堅牢なベット、マットレス、シーツ、カバーなど、
寝具をアマゾンより購入してきた・・。

こうした中、洗剤を購入した時、アマゾンより類似品が配送され、
私は返品する為、アマゾンにクレームを入れ、即時に応じ、
指定された返品センターに送付したりした。

或いは逆に家内が誤って、ある柔軟剤を購入する時、
パソコンで商品一覧表の中の指定を誤まってしまった・・。

たまたま私が留守で、家内はパソコンで数字が並ぶ注文番号がキー・インできず、
困苦しながら、アマゾンのお客様相談センター(・・?)に電話で取り消しの依頼をして、
即時快諾してくれて、キャンセルできたわ、と私は帰宅後に聞いたりした。

このような我が家は体験してきたので、アマゾンを信頼している。



余談ながら、もとより我が家の買い物はアマゾンだけでなく、
平素の買い物はスーパー、ドラッグストアーなどはしているし、
私は衣服だけは、いつものようにデパートの『伊勢丹』の新宿店で買い求め、
下着もスーパーの『イトーヨーカドー』の国領店にある紳士専門店で購入している。

或いは終活の延長戦として、私たち夫婦は、
子供いないため一世一代となるため、仏壇のことも検討してきた・・。

そして昨年の秋、仏壇として名高い『はせがわ』の都心にある店に行き、
仏壇と多岐な備品を確認した後、買い求めたりした。
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10年ひと昔、78歳の私は、こっそりと自身のブログの投稿文を読み返しして

2023-04-11 10:28:47 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、まばゆい
朝の陽射しを受ける中、配達された読売新聞を読んだり、
NHKのテレビ・ニュースを視聴したりしていた。

やがてぼんやりと、10年前の頃はどのような思いで過ごしていたのだろうか、
と思い馳せたりした・・。

                        


たまたま私は年金生活を始めて、まもなく偶然にブログの世界を知り、

結果としては、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、
原則として、日に一通は投稿してきた。

                              
そして年金生活を過ごしている中、日々に感じたこと、思考したことなどが
心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                                                 
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
このようなことから、10年ひと昔・・自身のブログの投稿文を、
こっそりと読み返しした・・。

今回、読み返しした投稿文は、
『 ボケてきたと68歳の私は、42年間で初めての失態に、苦笑して・・。』、
と題して、2013年4月12日に投稿していた。



《・・私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、

民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた築後35年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

         
こうした中で、年金生活を始めて数か月を過ぎると、現役サラリーマン時代の緊張感も無(な)くなり、
ここ数年は体力の衰えも実感している。

          

一昨日の10日の朝、私は新聞を読みながら、月刊総合雑誌の『文藝春秋』、

そして『中央公論』の最新号の出版広告を見たりした。
『文藝春秋』は長らく購読してきたので当然ながら買い求めるのであるが、
『中央公論』に関しては、特集に魅了された時だけ購読するのが、ここ40年の習性となっている。

今回の『中央公論』5月号に於いては、
私が敬愛している山崎正和(やまざき・まさかず)氏が
『一億総中道化時代の到来』と題された寄稿文が掲載されていたので、
一億総中流化時代が過ぎた後、デフレ経済が余りにも長く続く中、政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化し、
何とか政治は総中道化時代を迎えたのかしら、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

しかしながら10日の日中は、家内の支援も受けて小庭の手入れもあり、
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
最寄りのコンビニ、スーパーには『文藝春秋』はあるが、無念ながら『中央公論』はなく、
明日の11日に徒歩20分ばかりの駅前の本屋で買い求めよう、と決意したりした。

               

私は小庭の手入れで奮闘したので、腰、足は疲れていたが、迎え運動も兼ねて、
元気よく11日の午前中のひととき、平素の買い物専任者の私は最寄りのスーパーで責務を終えた後、
駅前の本屋に向った。

そして本屋の雑誌コーナーの表面に月刊総合雑誌の『文藝春秋』が山積みを視たりして、
この奥にある文芸雑誌棚で、読みたかった『中央公論』5月号を確認した後、
すぐ横にあった『文藝春秋』を手に取った。


この二冊を店内で持ち歩き、単行本のコーナーに行き、
オリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1』
(早川書房)の日本訳を探したが、結果として店頭在庫はなく、注文取り寄せの手続きをした。

この本は、10日の深夜 NHK-BS1に於いて、
ストーン監督によるテレビ・ドキュメンタリー(第一回目)を私は視聴して、
圧倒的に感銘させられ、本が出版されていると遅ればせながら学んだので購読したい、と思っていたのである。

               

私の脳裏はこの本と山崎正和氏の『一億総中道化時代の到来』を想像することで夢中で、

小さな脳みその私として満杯となっていた。


帰宅後、私は早速『中央公論』5月号を開き、
特集の『保守とリベラル』のひとつの山崎正和氏の『一億総中道化時代の到来』に教示された後、
残りの著名人の寄稿文を読んだりした。

               

夕方になると、買い求めてきた『文藝春秋』を開いた・・。

そして目次のページを見ると、なぜかしら読んだ記憶があるので、初めて表紙をじっくりと眺めると、
前月の4月号と気付いたのである。
どうしてなのょ、と動顚しながら思った。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和45〉年に大学を中退し、
映画・文學青年の真似事をしたが、はかなくも敗退し、
1970〈昭和45〉年の春に、この当時、ある大手の企業に何とか中途入社した。

しかしながら社会人として、私は何かと一般常識が欠けていると思い、
せめて月刊総合雑誌の『文藝春秋』ぐらいは読んだ方が我が身の為と確信を深め、
これ以来、本屋で買い求めて読んできたので、42年間の愛読者のひとりとなっている。


私は図らずも読んできた前月号を買い求めたので、とりあえず洗面所に行き、顔を洗ったりした。

そしてこの本屋さんは、親切心に前月の4月号も本棚の前に平積みに置いてあったので、
私は『中央公論』5月号に注視し、横にあった『文藝春秋』の月号も確認せず、
何気なしに手に取り、この二冊を買い求めた、と気付いたのである。

この後、私は本屋に電話して、最新号の5月号と交換して欲しいと丁重にお詫びし、
交換して頂くことになった。

               

そして私は、前月号の『文藝春秋』を間違えて買い求めて、42年間で初めての失態に、

恥ずかしながらボケてきた、と苦笑したりした。


そして本日の午前中のひととき、駅前の本屋に行き、『文藝春秋』を最新号に交換して頂き、
注文取り寄せした本のオリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1』
(早川書房)も到着直後だったので、買い求めたりした。

私は帰宅する途中で、何事も一に確認、二に確認、
今後の私のボケ対策の必須事項だ、と思ったりしながら歩いたりした。・・》



このような投稿文を私は読み返しして、
10年前・・あのようなことがあったんだ・・とあの当時の頃を思い出されたりした。

そして敬愛している山崎正和さんは、無念ながら 2020年(令和2年)の夏に、
ご逝去されたりし、遺(のこ)された数多くの書物を、
私は今でも、ときおり開き、多々教示されたりしている。

或いはオリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』、
あの当時、私なりのアメリカの歴史、この3冊構成を含めて、思案させられたりした。

私は10年前より、足の膝(ひざ)を痛めて、畳の上で正座が出来なくなったり、
物忘れも時折あり・・確かに昔の人から伝えられる《・・十年一昔・・》、
確かに・・と微苦笑したりしている。

そしてブログの投稿文をほぼ毎日投稿すれば、
あの年の月日の心情が投稿文と共に蘇(よみがえ)ってくる・・、
とブログの効力に苦笑したりしている。

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私は齢を重ねたびに、家内に従順となり、独り微苦笑をして・・。

2023-04-10 10:54:04 | 喜寿の頃からの思い

私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。

私のすぐ下の妹は1969年(昭和44年)の秋に嫁ぐこととなり、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の結婚の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文学を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

そして私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
私は森鴎外(もり・おうがい)を敬愛していますが、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、

と私は言ったりした。

こうしたこともあり、義父からは、苦笑されながら、
何かと私は可愛がれたりしていた。



こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年(昭和50年)の秋であり、私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、
ボタンの掛け違いのようなことが発生して、
両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。
                    
やがて1976年(昭和51年)3月下旬に結婚式、そして披露宴を終えたが、
この間の結婚式で、私は不馴れな羽織(はおり)、袴(はかま)、そして扇子を持ち、
控室から指定された結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と何かと小心者の私は、
改めて思いながら緊張したりした。


そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、
今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、

隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                   


この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、

短めな新婚旅行から帰宅し、2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であり、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも賃貸で支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したが、
結果として私の生家の近くに空き地があったので、この地に戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの生活の合間に、
先生の元に週一度通って修業していたので、
私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、

ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。

しかしながら私は奮戦しても、家計は赤字が多く、
突然に家内は、デパートに呉服売り場の契約社員として働き、

我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
                               


この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。

こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。
          

私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
          


やがて50代になると、1998年(平成10年)に、
音楽業界の各レコード会社の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、
リストラ烈風となった。


こうした中で、私の勤めいていた会社も、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。

                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となった。
          
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり、都落ちの無念さを感じたが、

半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
          



やがて出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、

私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えられたりした。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら実情は、こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

このように私は拙(つたな)いサラリーマン時代であり、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
遥かに遠い存在である。

この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては残された人生はお互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

                 
      

私の定年退職後、年金生活を始め、私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。


その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

       
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

或いは昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。


そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に4回ぐらい茶坊主の真似事もしている。


こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。



そして家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行き、孤軍奮闘をしているのが定年後の状態でもある。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、 特別演習かしら、
と思いながら私は過ごしている。
                    

我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認しながら、ボケてはいけないと思い、若き自衛隊の諸兄に負けないように、
元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。

その直後、 『ご苦労であった!』と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、
と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、

どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

その後、思い当るとすれば、確か2008年(平成20年)の頃にNHKの連続ドラマの『篤姫』が放映され、
家内は幾たびも視聴していたので、お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
          


我が家の収入の現状は厚生年金、そして少しながら企業年金である。

私が過ぎし現役サラリーマン時代の年収は、孤軍奮戦して年々ほぼ確実に増えてきたが、
今や年金そして預貯金は減ることがあっても、増えることはないのが実態となっている。

そして我が家の年金、そして預貯金は先々ほぼ推定できる上、
体力も齢を重ねるたびに衰えてきたので、

ともすればプラス思考の私でも、気弱になることもある。

そして家内からすれば、安定飛行のような年金生活の為か、
意気溌剌として過ごしている。


私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であるが、立案するのは大半は家内であり、
定年後の年金生活となると現役サラリーマンの時代から、旅路の日数の制約が無くなり、
6泊7日前後の観光ホテルに滞在して、その地の周囲を歩き廻って遊学することが多くなっている。

こうした中で、周辺を廻るプランを私たち夫婦は思案する中、お互いの要望の食い違い少し険悪になった場合、
数分以内に『XXちゃんのおしゃる通りです』
と私は家内の案に同意したりしている。

私は家内からは文学、映画、音楽などに関しては、軽い論評される時は困惑するが、
これ以外は年金生活の日常、そして旅路のことなどは、家内の案に賛意した方が問題解決が早く、
このようなことは私たちの結婚生活の中からすれば、大勢に影響はないと思ったりしている。

もとよりこうしたことにお互いにこだわると、共に楽しく過ごせる時が、
台無しになることも私は配慮した上、家内に優先権を与えることにしている。
                   
ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と社交辞令のお世辞を頂いている・・。

しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、『ボケチンねぇ・・』と
家内から微笑みながら私に苦言される時もある。




このような私たち夫婦の生活であったが、
2019年の新春、私たち夫婦はそれぞれ大病に遭遇したりして、
少し変貌したりした・・。

そして翌年の2020年の2月に新型コロナウィルス烈風になったりしてきて、
私たち夫婦は、それぞれ自粛してきたが、基本的な生活は余り、変わらないなぁ・・、
と時折思い馳せることもある。

このように私たち夫婦は、年金生活を過ごしてきた19年・・
私たち夫婦の結婚生活は、私は齢を重ねたびに家内に従順となっている、
と微苦笑したりしている。

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亡きペギー葉山さんの歌、78歳の男性の私でも、心の片隅で残っている名曲は・・。

2023-04-09 10:05:24 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、




こうした中、たまたま昨日の午前中のひととき、市内にある都立の『神代植物公園』に向かった。

いつものように最寄り駅のひとつの京王線の『つつじが丘』の駅前より、
路線バスで調布市の『総合体育館前』で下車した後、

体育館前の広場を通り過ぎて、隣接の『植物多様性センター』を散策したりした。


こうした中、桜花は3月中旬から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始め、
その後に山桜(ヤマザクラ)も終わりを告げて、八重桜(ヤエザクラ)が彩っていた。

この間、数多く観られる落葉樹は、芽吹き、そして若葉の色合いは、
萌黄色から黄緑色にうつろい、昨今は新緑色に染められいる。



こうした中で、クヌギ、コナラなどは芽吹きが始まり、
欅(ケヤキ)は幼いあまたの葉を広げて、空に向かうように伸びはじめている。 

       

               
或いは常緑樹は、新芽を伸ばしながら葉色は光沢を増し、
眩(まばゆ)い色合いとなっている。

私は幼年期は農家の児として育った為か、
風光る時節だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりし、微笑んだりした。


このような新緑の若葉の色合いに魅せられて、長らく見惚(みと)れたりした時、
昨夜、CD、DVDなどが収納している音楽棚の中に、音楽の本もあり、
この中の一冊を取り出した時、新聞の切り抜きの記事が出てきて、
思わず読んだりしたことが、脳裏から舞い降りてきた・・。

この記事は、読売新聞の2017年4月13日に於いて、
歌手のペギー葉山さんが亡くなり、読売新聞の編集委員・西田 浩さんが、
[評伝]として記事を綴られていた。



《・・[評伝]ペギー葉山さん死去/渋々歌った「南国土佐」

12日に83歳で亡くなったペギー葉山さんに、
最後にお会いし、話をうかがったのは今年2月20日だった。


9月にはデビュー65周年記念リサイタルが予定され、

「これだけ長い間、歌い続けていられることへの感謝を込めて一曲一曲を大切に披露したい」と、
よく通る声で熱っぽく語っていた。

それから、わずか2か月弱。
突然の訃報(ふほう)に言葉を失った。


幼い頃から歌が大好き。
高校時代に、アルバイト感覚で進駐軍キャンプで、ジャズを歌うようになった。
「米兵が私の歌で盛り上がってくれるのが快感だった」という。
これがプロを目指すきっかけとなった。

1952年にデビューし、2年後にNHK紅白歌合戦に出場するなど、順調に歩を進めた。
そこには、10か月早く同じレコード会社からデビューした江利チエミの存在が大きかった。

「同じジャズ畑で、私がデビューした時に、彼女はすでにスター。
負けたくないという一心で頑張った。
切磋琢磨(せっさたくま)する良きライバルで、友人でした」と述懐していた。


外国曲を中心に歌ってきたペギーさんに転機が訪れたのが、1958年だった。
高知で生放送するテレビ番組で、地元ゆかりの「南国土佐を後にして」を披露した。
最初は「民謡調の曲を歌うのは嫌」と断ったが、番組ディレクターの説得に負け、渋々歌ったという。

ところが放送後に反響が殺到、レコード化され大ヒットした。
これを機に歌手としての幅を広げ、以後、正統的な歌謡曲「学生時代」、
米国のミュージカルの舞台で出合い、自ら訳詞した「ドレミの歌」など、

様々なタイプのヒット曲を生んだ。

ジャンルにとらわれぬ姿勢が、息の長い人気へとつながり、明るく飾り気のない人柄も愛された。
             

小学生の時、自分をいじめた男子同級生を上履きを振り回して撃退したと
笑いながら話してくれたのがまぶたに浮かぶ。


はつらつとした声による骨太の歌唱が持ち味で、リズムに乗った曲との相性は抜群だった。
米国の名歌手、ドリス・デイを敬愛し、
彼女のレパートリーだった「ドミノ」でデビューできたことは、本当にうれしかったという。


「でもね、後年、彼女に会った時に『この曲でデビューしました』って伝えたら、
『私、そんな曲歌ってたかしら』だって。私にとっては大切な曲だったのにね」。
インタビューで語ってくれた逸話が心に残る。
そんなデイやライバル・江利のいる天国へと旅立って行ったのだ。


昨年出した最後のシングル曲「おもいでの岬」は、叙情的な曲調に乗せ、今はいない人への思慕を歌った。
改めて聴くと、重鎮を失った歌謡界、そして多くのファンの気持ちと重なるかのように響いた。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             



私は楽譜も読めなく、楽器も弾くことは出来ないが、
歌を聴くのは好きであるが、ペギー葉山さんに関しては余り愛聴していないが、

しかしながら今でも、心の片隅で残っている曲がある・・。

私はペギー葉山さんの歌を初めて聴いたのは、『ケ・セラ・セラ』で、
確か私が小学6年生の1956年(昭和31年)の頃で、ラジオで盛んに流れていた。

やがて私が高校2年生の1962年(昭和37年)の頃、
『ラ・ノビア』を聴き、私は瞬時に魅了されたりした。


この当時は、日本ではカンツォーネ・ブームで、私はカンツォーネの歌に夢中となり、

イタリアの歌手トニー・ダララさんが唄われた『ラ・ノビア』をレコードで、
何10回も聴いたりしていた。


そして日本では、ペギー葉山さんが唄われて、
私はときには感きわまり、涙を浮かべながら、感動したりした。


やがて後年になると、『ラ・ノビア』は、チリの音楽家ホアキン・プリエートさんが、
1958年に作詞作曲した歌曲と、
学んだりした。

             

私が大学2年の1964年(昭和39年)、ペギー葉山さんは『学生時代』を唄われ、
街の中で盛んに流れたりしていた。

私はワンピースかツーピースを召した女子大生が、学生生活を謳歌しているイメージで、
素直に私と同世代のさまざまな心情を重ねて、圧倒的に好感した歌のひとつとなったりした。

私は『南国土佐を後にして』、『ドレミの歌』は聴いたりしたが、
一時的に聴いたりする程度であった。




しかしながら、『ドレミの歌』は後年、たまたま私はあるレコード会社に勤めている中、

風の噂として、他社の専属契約のペギー葉山さんの伝説を先輩から教えられたりした・・。

1960年8月、ロサンゼルスの日米修好百年祭にペギー葉山さんは日本人代表として招かれ、
この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。

そして劇場の売店で譜面とオリジナルLPを購入し、
そのままホテルへ直行し1番の訳詞を手がけ、日本に持ち帰った・・。

帰国後、自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌、『ドレミの歌』をペギー自身の訳詞で紹介し、
ペギーの訳詞・歌唱による『ドレミの歌』は、NHK『みんなのうた』でも使用され、
音楽の教科書にも掲載されるなど、広く知らししめた御方と知ったりした。

こうした功績を知ると、国民栄誉賞は時の総理大臣が任命できると知り、
文化を大切にする私としては、総理大臣だったならば、
ペギー葉山さんの功績をたたえて、国民栄誉賞をささげるのになぁ・・、

と思いを馳せたりした。
             


このようなことが思い出されたりした・・。
そして私は今でも、心の片隅で残っている曲は、『ラ・ノビア』と『学生時代』である。


そして私は、ペギー葉山さんのご冥福を改めて祈りながら、
久々に『ラ・ノビア』と『学生時代』の名曲を聴こう、
と思いながら、
やがて、帰宅に向かったりした。

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私のブログのコメントを頂く御方は、小学5年生の女の子~80代の男性まで・・。

2023-04-08 07:30:40 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の78歳の身であるが、
亡き母から遺伝を受け継ぎ、恥ずかしながら男の癖におしゃべりなひとりとなっている。

そして現役サラリーマン時代は、血液型はB型の為か、
たとえ難題もおだてられると、はい・・できます、と高揚しながら睡眠時間を削り、
奮闘したりしてきた。


やがて2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
定年後、多々の理由で年金生活を始めると、
家内はもとより、ご近所の奥様、ご主人など談笑をしたりしている。


そして旅先で、食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
私は話しかけて談笑したりしている。

                        


こうした中、私は年金生活を始めて、まもなく偶然にブログの世界を知り、

結果としては、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、
原則として、日に一通は投稿してきた。

                              
               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                                                 
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。

そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。                                   

最近、反省をして、初心に帰れと、随筆風の投稿文に帰路したりしている。

                       



こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、

投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは4年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。
                                            
      

このように私は自身の投稿文も大切であるが、文愛人(ふみあいびと)のひとりの私は、

この間、数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。

こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、
やがてその御方のブログの愛読者のひとりになってきた・・。
                       

ときおり私は数多く方にコメントをしてきたが、
数多くの御方からでも、コメントを頂いてきた・・。


先ほど、ぼんやりとブログを開設以来、コメントを頂いた人たち・・思い浮かべたりした。



そして私の世代に相応(ふさわ)しく、やはりシニアの60歳代、70歳代が圧倒的に多いなぁ、
と私は微笑んだりした・・。

こうした中で、過ぎし年に小学5年生の女の子から、突然にコメントを頂いたりした。
確かブログを始めて半年が過ぎた頃、
あるブログに準じた簡易ブログサイトに私が加入していた時、

札幌市にお住まい小学5年生の女の子から、コメントを頂き、私は驚いたりした・・。

何かしら東京に行きたい、と主旨であったが、
私は旅先の札幌の市内、郊外には、幾たびか訪れていたので、
東京より素敵な処が数多くあります、と具体的に名所、景観を記載して返信したりした。

そしてお互いに3通ばかり交流した最後に、
お父様によくお話しをして下さいね、と私は記載して、終結とした。
          



或いは私は音楽が好きなので、数多くの投稿文をしている中、
20歳代、30歳代の男女から、

幾たびかコメントを頂いたりして、教えられることも多々あったりした。

そして或る年、高校2年の女子生徒より、私の投稿文に対して、
アメリカの社会学者のアルビン・グールドナー・著作の『知識人の未来と新たな階層の台頭』に関心があり、
とコメントされてきた・・。

そして私は、高校2年生の貴女様が、この御本に関心があると知り、
社会学に早熟で、驚いている次第です、

と称賛した文を返信したりした。

何よりも恐縮したのは、私が65歳の時、84歳の男性から、健康のこと、
或いは人生教訓のことまで記載され、私は多々教示されたりした。
             


この間、海外に住む御方からでも、コメントを頂き、
ネットは世界をめぐることを実感させられたりした・・。


過ぎし14年前に、アメリカのミシガン湖畔の住宅街にお住まい日系3世、高校女子生徒と、
日本とアメリカの風習、季節感の差異をお互いに確か6通ぐらい交流した。

やがて広島の原爆投下の理由に関して、
多くのアメリカ軍の青年を犠牲するを避けるために原爆投下した、と学校で教えられた、
と断片するように記載され、私に同意を求めたので、
私は異論を唱えて、はかなくも交流は途絶えた・・。



或いは2015年の時、ドイツにお住まいの女性と思われる御方から、
私が2015年4月11日に於いて、
【『長崎の鐘』の歌、私が生まれて初めて感動させられた歌となり・・。】

と題した投稿文をお読み頂いたりした。

そして日本に訪れる時、『長崎の鐘』の歌を唄いたく、歌詞を教えて下さい、
という内容で、電子(E)メールのアドレスも記載されて、
少したどたどしい日本文で真摯な心情でコメントを頂いたりした。


私は迅速に、歌詞を記載し、電子(E)メールで送信したり、
コメント欄にも同一内容を返信したりした。


やがて丁重なコメントを私は頂き、恐縮しながら微笑んだりした。

そして電子(E)メールも頂き、更に真摯な詳細事情を記載されて、
電子(E)メールのアドレスの削除を依頼されていたので、

やむなく最初のブログ上のコメントを私は削除したりした。

             

このように私は、ブログを真摯に、ときには楽しく投稿をしてきた中で、コメントを頂い御方は、
小学5年生の女の子から80代の男性まで、そして想定外の海外からも頂き、
ひたすら感謝しながら微笑んだりしている・・。

余談ながら、私も卑劣なコメントを幾たびも受けたりしてきた。

この時、私はこれには、困ったなぁ、と感じたりした。
私は大学中退の身であるが、書き込みをされた方は、
たとえ大学、大学院などを卒業されても、心の貧しい人と思っている。
          
このようにネットの世界は、多岐に及び、海より深い不思議な世界、
と思ったりして、19年目を迎えている。

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風光る中、富や名声に無縁な拙(つたな)い私でも、夢幻のようなひととき過し・・。

2023-04-07 10:27:23 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
昨日、昼過ぎ月一度の散髪屋(理容店)に行った後、
帰宅後、いつものように独りで散策をした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
こよなく愛している散策路のひとつである。




私は過ぎし3月中旬から桜花の染井吉野(ソメイヨシノ)、そして山桜(ヤマザクラ)、

終幕として八重桜(ヤエザクラ)を愛(め)でながら過ごしてきた。
          











この間、数多く観られる落葉樹は、芽吹き、そして若葉の色合いは、

萌黄色から黄緑色にうつろい、昨今は新緑色に染められいる。







或いは常緑樹は、新芽を伸ばしながら葉色は光沢を増し、眩(まばゆ)い色合いとなっている。



こうした中、天上の気候の神々の采配に寄り、5月中旬のような20度前後の陽気の中、
眩(まばゆ)い陽射しを受け、ときおり吹く風は薫風かしらと感じたりしたので、
風光る時節だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりし、微笑んだりしたた。

そして私は小公園に立ち寄って、
欅(ケヤキ)は幼いあまたの葉を広げて、空に向かうように伸びはじめている。        
               
こうした中で、クヌギ、コナラなどは芽吹きが始まり、
これから大きく育つからねぇ、見ていてねぇ、といったような風姿を見せてくれている。

               

新緑の若葉の色合いに魅せられて、長らく見惚(みと)れたりした・・。



私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

                               

過ぎし私が現役サラリーマンの40代の頃、
若き時期に映画、そして文学青年の真似事をして敗退した私は、
情念の残り火りのように西行、鴨長明、芭蕉が遺(の)こされた作品に思いを寄せることが多かった。

もとより西行(さいぎょう)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人であり、
  ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ
などを詠まれた『山家集』もある。

そして鴨 長明(かもの・ ちょうめい)は、
平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
『方丈記』が代表作となっている。

松尾 芭蕉(まつお ・ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師。
数多い中で私は、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、一句に圧倒的に魅せられてきた。

こうした時、私は家内を誘い、吉野山の桜を愛(め)でる旅路をしたりしてきた。



年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、
無念ながら病死したりした。

まもなく、知人のひとりの50代の奥様が病死されて、 この知人は『おひとりさま』となり、
私たちの多くは通夜の時に哀悼をしながらも、動顛してしまった・・。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、
60代で妻が夫より先に亡くなることは、 考えたこともなく、
こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。                                                                      

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、
この世を去ったり、 ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、

数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、 
私は震撼させられたりしてきた・・。

こうしたことを思い馳せると、神様か仏様か解らないけれど、
つたない人生航路を歩んできた私は、生かされている、
と思いをしたりした・・。
  


    
やがて私は歩きだして、野川の川端に近い小路は、
この時節は黄色い花の菜の花、そして淡き紫色のハマダイコンの花が、長く帯のように咲くので、
私は遊歩道から見下ろして、ここ10数年眺めてきた情景である。
          




やがて私は、遊歩道から川辺に下り、
先ほど橋の上から眺めていた菜の花、ハマダイコンにお見合いする為、

川端の小道をわずかながら歩いた。          
          
そして菜の花、ハマダイコンを長らく見つめたりした。
          
      

私は幼年期は農家の児として育てられたので、このような野花に今でも魅せられている。


このように平日の昼下がりのひととき、富や名声に無縁な拙(つたな)い私でも、
私にとっては夢幻のようなひとときを過ごしたりしている。

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『 高齢者だって年上の言葉を聞きたい! 』、78歳の私も深く共感して・・。

2023-04-06 09:00:40 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市の住み年金生活をしている78歳の身であるが、
午前中のひととき、家内から依頼された平素の買物を終えた後、
やはり独り散策をすることが多い。

そして自宅の近くに流れる野川の桜並木の遊歩道を歩いたりすると、
満開の情景から、やがて花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なったりする。

こうした情景を観ると、 私は立ち止まり、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下する。

古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

私は桜花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に、確かな美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしてきたが、
遥か千年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてきた。

          

そして私は桜花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も大病もせず、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねることが多い。

或いは野川の水の流れを見たりしていると、
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。

そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、桜花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。

このような桜花のうつろう情景に心を寄せてきた。

          

こうした中、ぼんやりと眺めていると、不意に『 高齢者だって年上の言葉を聞きたい! 』、
名言のひとつをが脳裏から舞い降り、そうですよねぇ・・、と深く同意を深めたりした。

私が偶然に、この名言を知ったのは、過ぎし2017年2月の頃、
文藝春秋のネットひとつの【文春オンライン 】を見たりした中で、
【 高齢者だって年上の言葉を聞きたい! 】と見出し記事があり、
瞬時に魅了されて精読してしまった。

何かしら『週刊文春』2017年2月9日号の中で、ベストセラー解剖と連載記事があるらしく、
今回は髙橋幸枝さん著作『100歳の精神科医が見つけた こころの匙(さじ)加減』
(飛鳥新社、2016年9月8日 発売)を採り上げて、
この本の担当編集者された江川隆裕さんが、解説された文である。

この記事は【文春オンライン 】に2月5日に配信されていて、無断ながら転載させて頂く。
             



《・・『100歳の精神科医が見つけた こころの匙(さじ)加減』(髙橋幸枝)――ベストセラー解剖

「今のシニア層には肉体的に元気な方が多いですよね。
子育てが終わり、孫の顔を見ても、まだ先がある。

そうなったとき、『残りの人生で何をしたらいいのかわからない』
といった漠然とした不安に悩まれる方が多いようなんです」(担当編集者の江川隆裕さん)

そんな状況がありながらも、高齢者の心の問題に、寄り添おうとする著作は少ない。

大正5年生まれ、満100歳の著者による大ヒット中の本書は、貴重な1冊だ。
精神科医として患者と半世紀にわたり向き合い続けた中で、
見つけ出した40個の「生きるヒント」を、語りかけるような穏やかな文章でまとめている。

「自分より若い人の言葉よりも、年上の方の言葉のほうが素直に受け入れられるところがありますよね。
70代、80代になっても、やはり同じなんです。
年長者の言葉を求めている。

とはいえ、その条件に応えられる著者はなかなかいません。
髙橋先生はちょうど、今のシニア層にとって親の世代にあたり、
実際に『亡くなった母から励まされているような気持ちになった』という反響も届きました。

内容もさることながら、高齢者に人生の先達として言葉をかけられる著者である点も、
ヒットの要因として大きく感じています」(江川さん)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             



私は小学2年に父に病死され、母と兄ふたり妹ふたりの間で育った身である。

やがて私は1970年(昭和45年)の春、民間会社に中途入社し、
最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったりした。

そして2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

こうした中で、私はもとより上司、先輩などから多々教示されたりし、
或いは書物から多く学んだりしてきた。

そして少年期から父親が不在であったので、
何かしら慈父のような御方を探し求めたりしてきた。
或いは年長の御方たちから、人生のものさし、を学びたく過ごしてきた。

こうした中で書物からは、庄野潤三、城山三郎、山口 瞳、宮脇俊三、倉本 聡、各氏の
随筆から学んだりしてきた。

やがて2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたりした。

こうした中で、阿川弘之、曽野綾子、三浦朱門、 高峰秀子、松山善三、徳岡孝夫、各氏の随筆から、
殆ど読み、人生の指針を学んだりしている。
             



或いは私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭であるが、
いつの日にか、家内が私を残して、あの世に旅立ち、
まさかの遭遇で、私が『おひとりさま』になること考えられる。

こうした思いもあり、愛妻を亡くされた倉嶋 厚・著作の『やまない雨はない』、
徳岡孝夫・著作の『妻の肖像』、 垣添忠生・著作の『妻を看取る日』、 川本三郎・著作の『いまも、君を想う』、
新藤兼人・著作の『愛妻記』、それぞれの各氏の愛妻の終末の病状、そして告別の死、
その後の『おひとりさま』の生活状況を多々教示されてきた。

そして私は、川本三郎さんは恥ずかしながら同年であるが、
これ以外はすベて年長の御方たちである。


私は年長の御方たちから、少なくとも人生の機敏を深く学び、今日に至っている。

こうした状況もあり、高齢者だって年上の言葉を聞きたい!、瞬時に確かな名言と思い、
そうですよねぇ・・、と定年後18年を過ごしてきた私でも、深く同意を重ねている・・。

余談ながら、今回の髙橋幸枝さんのこ著書は未読である。

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恥ずかしながら、体力の衰えた78歳の私は、晩秋期に備えて寝具を改善して・・。

2023-04-05 10:51:41 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、
ここ一週間の私は、
ベットの布団にもぐるのは、真夜中の12時半前後であり、
目覚めるのは朝の7時前後が多くなっている。

寒さが去った昨今、堅牢な木枠のベットで、マットレスを敷き、
その上に敷布団を敷いた上に、電気毛布を敷き、薄い毛布のようなシーツを敷いている。

そして羽根布団を掛け、その上に掛け布団を掛けて、寝ている。

このような寝具体制になったのは、過ぎし2019年の新年そうそうに、
私は1月3日の夜10時過ぎ、心臓の左胸が圧迫され、強く痛みを感じて、
やむなく救急車で循環器専門の病院に搬送され、
やがて『胸膜炎』(急性冠症候群)と病状とされ、
しばらく経過観察したく・・ と入院が余儀なくされてしまい、
結果的に8泊9日の入院となったりした。

それまでは、2階の和室の六畳間で私たち夫婦は長年布団を並べてきたが、
退院後、今後の老化を配慮して、1階の和室の六畳間と隣接した書庫の3畳間を、
私たち夫婦は寝室として移動したりした・・。

そして私だけが、ベッド形式となり、
家内は従来通り、家内の要望で少し高価な布団で過ごしている。



このような形態で私は、夕方に電気毛布の温度を『中』にして、
やがて夜の11時過ぎに布団にもぐると、薄い毛布のようなシーツと暖められた羽根布団に、
私の身体がサンドイッチされると、身も心もつつまれて、

天国のように感じながら、安眠している。

ただし、寝る前に電気毛布の温度を『弱』にして、
朝まで電気毛布の威力に頼っている。

こうした中で、現役サラリーマン時代だった時と違い、悩みは激少している為か、
たとえ震度3ぐらいの地震でも、 目覚めることなく熟睡している。

そして目覚めた時、ぼんやりと昨日までの出来事を思い浮かべたり、
今日は・・と予定事項を思い浮かべたりしている。

このように7時間前後、私は睡眠しているが、

現役サラリーマン時代は、多くの諸兄と同様に、
睡眠を削り奮闘することが多かったので、年金生活の今、安楽に長く、寝付いている・・。



このように享受してきたが、昨今、体力の衰えを感じている私は、
『寝返りが自在に出来ないようで・・疲れが取れないと気がある・・』、
このような意味合いのことを私は、家内に言ったりしてきた・・。

やがて家内は、長年愛用してきたマットレスの老朽化した原因かしら・・と思い、
買い改める為に、多岐に調べたりした。

やがて家内は私に勧めたのは、
《・・THE GINZAマットレスは、
硬さ・弾力性・凹凸加工など異なる5つの素材からできており、
順番を入れ替えることで、120パターンもの寝心地が実現します。

その中から、よくある3つのお悩みにおすすめの組み合わせ順をご紹介。

現在お悩みをかかえている方はもちろん、生活や環境、年齢や体型の変化により、
寝心地の好みや新しく悩みが加わったとしても、その“変化”に合わせて、
マットレスも“変化”させることで、いつでも快適な眠りが実現します。・・》

このような解説されたホームページを私は読んだりした。

そして家内は、堅牢な木枠のベットを横幅を広くして、
これに準じたマットレスとシーツ、カバーなど新調すれば・・、
と私に強く勧めたりした。

やがて私は、自身の晩秋期に備えて、寝具も改善しょうか、と思い、
買い改めることにした。

そして昨日、配達され、私たち夫婦はセッテングしたが、
ある程度終わったのが夜の9時近くであったりした・・。



こうした中、18畳ばかりの洋間の居間も、
私たち夫婦は晩秋期に備えて、いろいろと対策をしているのが、
ここ一週間となつたりしている。

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この人生に、私たち夫婦は改めて感謝を深めて・・。

2023-04-04 10:43:12 | 喜寿の頃からの思い
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、私より5歳若い家内と2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建て住んでいる。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても、何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりする。

『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。




こうした中、私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、
遠方の地に一戸建てに住んでいる。


ここ10年数前の頃から、4年少し前まで、

長女の家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、
私にとっては、まさかの出来事のひとつとなったりしていた・・。

                          
やがて家内の母が『要介護2』となり、長女の家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に5泊6日前後で宿泊して、 

家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となり、

これも人生だよねぇ、と私は独り微苦笑したりしてきた。


              
私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風が更に加速なる中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社を余儀なくされた同僚、後輩に少し後ろめたく、

退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

                         

私が年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、 私は自主的に買物専任者として宣言し、
家内から依頼された品を求めて、 独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、
買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを散策して、
季節の移ろいを享受している。

このような午前中の過ごし方を、過ぎし3年前の春に新コロナウィルスの烈風のまでは、
定例事項のように過ごしてきた・・。



例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、過ごしてきた。

そして散策する時には、殆どデジカメをネクタイのように首回りから下げて、颯爽と歩き、
歩いている中で瞬時に魅了された情景を、無念ながら忘れることがあるので、
記憶のかたみの代わりに、撮ったりすることが多くなっている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。             

私は定年後に年金生活の始めた直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

或いは雑木の多い小庭に古ぼけた我が家に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、 ゆっくりと時を過ごし、
苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。



私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、

無念ながら病死したりした。

まもなく、知人のひとりの50代の奥様が病死されて、 この知人は『おひとりさま』となり、
私たちの多くは通夜の時に哀悼をしながらも、動顛してしまった・・。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、
60代で妻が夫より先に亡くなることは、 考えたこともなく、
こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。                                                                      

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、
この世を去ったり、 ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、

数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、 
私は震撼させられたりしてきた・・。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。





私たち夫婦は、過ぎし年金生活14年間は、幸運にも大病に遭遇せずにきたが、
やがて2019年は予告もなく私は、新年そうそうの1月3日の夜10時過ぎ、
心臓の左胸が圧迫され、強く痛みを感じて、
やむなく救急車で循環器専門の『榊原記念病院』に搬送されたりした。

やがて『胸膜炎』(急性冠症候群)と病状とされ、
しばらく経過観察したく・・ と入院が余儀なくされて、
結果的に8泊9日の入院となったりした。

こうした中、退院の一日前、40代の男性の担当医師より、
『私もタバコを喫っていましたが、やはり身体によくないと思い、
3年前にやめまして・・
貴方もタバコやめることはできませんか・・』、
と私に言ったりした。

私は、困ったなぁ・・と溜息をしたりした後、
『これを機会に、タバコやめます』
と私は担当医師に向かって言ったりした。

そして自身を鼓舞するように、人生は気合だ、と心の中で叫んだりし、
これを機会にタバコにお別れとなったりした。

こうした根底には、何かを断念しなければ、この先はないと思い、
断腸の思いで禁煙したのは本音であった。

更に3月の初めの頃、私は突然に左眼だけが酷い白内障になったように視力が激変し、
結果的には4月2日より、眼科医院に6泊7日して左眼の 硝子体手術を受けたりした・・。



この間、私が3月は左眼の検査で忙しくしている時、 家内が体調を崩して内科を検診した後、
まもなく胃の後ろ側にある 長さ20センチ前後の左右に細長い臓器の膵臓(すいぞう)に
異変があることが推定された。

やがて私の住む地域の都立の大きな総合医療センターで、 3回ばかり通院して、
専門医師のアドバイスされる中、初期の膵臓(すいぞう)がんです、と診断されたりした。

そして4月17日より2泊3日で、家内は検査入院した後、
5月12日より摘出する手術で入院をして、この後の経過状況、
やがて回復状況も医師より順調と診断され、19泊20日間を得て退院となり、
我が家に生還してきた。


もとより、この間の私たち夫婦は、最悪の場合を想定することもあったりして、
震撼しながら揺れ動いたりした・・。

そして転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、ひとり住まいなどを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。



やがて手術後、3年9カ月が過ぎた今年の2月16日、

定例の精密検査をし、幸運にも転移がなく、私たち夫婦は安堵をしたりした・・。

しかしながら、こうした病状はやはり5年過ぎるまで、どのような変貌するか、
判らない・・。

このようこの当時、私は入院生活を2回も体験し、
そして家内は結婚以来、初めての入院生活を過ごすこととなり、
お互いに病院に通う日々が多くなり、微苦笑をしたりした・・。

こうした中、家内の母のお世話は、近くにいる家内の妹に依頼して、
やがて家内の母は『要介護・3』となり、やむなく介護施設に入所し、
月に数日だけ、家内の母は自宅に帰還し、家内の妹がお世話しているのが、
実態なっている。

このようなに体験を私たち夫婦をしながら、
一日を大切に過ごそう、とお互いに言い交したりしている。



私は友達、知人は自身が選ぶことができ、こうした中で悪感情の末、疎遠になったり、解消できるが、
家族の親子、兄妹は、たとえ愛憎、確執があっても、

一生つきまとい、手を切ることができない間柄となっている。

しかしながら血は、水より濃いと称されるように肉親、夫婦、親子、兄妹だけが
知りえる互いの喜びがあり、互いに共有してるのが家族である。

このように家族に対しては、私はプラス思考となっているひとりである。

こうした考えをぼんやりと思い馳せると、モーリス・メーテルリンクさんの童話『青い鳥』のように、
幸せな『青い鳥』は、人誰しもそれぞれのお住まいの身近な所にいる、

と私は確信を深めたりしている・・。



私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると、定年後に年金生活を始めたりした・・。

そして定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

或いは昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

そして午後から夜の大半は、私は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、 或いは音楽も聴いたりしている。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に4回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして人だれしも長所、短所はあるが、
私は短所の方が多いので、家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

              

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、

血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、
ボタンの掛け違いのように差異が発生し、険悪になることもある。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、
私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりする時もある。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、

と私は微苦笑したりしている。

こうした中、私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら日常生活の実情は、私は家内のことを、

婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。




やがて2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ・・』と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、『ボケチィンねぇ・・』とか、
ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』と家内は微苦笑しながら、

私に言ったりしている。



私たち夫婦は年金生活を過ごして、丸18年過ぎているが、
47年ばかり寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
こうした年金生活は、定年退職するまで何かと悪銭苦闘が多かった為か、
予測した以上に安楽の日々を過ごしてきた。

世の中は少年時期から青年時期を過ごした後、やがて後年になって、
ボクの青春時代はあの時期だった、と回想する走馬灯ように、
その時の出来事を思い馳せたりすることがある。

このようなことも人生に於いてあるので、
いつの日にか現在の生活を思い馳せた時、

 今こうして過ごしている私たち夫婦は最良の日々かしら、
と私は感じたりしている。

これからの晩秋期の日々は、体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、
最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。


こうしたことは自助努力も必要であるが、 
こればかりは神様か仏様か采配する世界と思ったりしている。

このように思案している私は、

こうして過ごしている昨今こそが、いつまで続くか解らないが、
私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている。
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買物メール老ボーイの私、買物した帰路、瞬時に魅せられた情景は・・。

2023-04-03 13:57:36 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


私が年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、 私は自主的に買物専任者として宣言し、
家内から依頼された品を求めて、 独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、
買物メール老ボーイとなっている。

こうした中で、いつものように本日も最寄りのスーパーに行った後、
路線バスも走行する大通りの歩道を歩いたりした・・。

こうした中で、両手にスーパーのレジ袋を提(さ)げて、自宅に向かっている時、
思わず立ち止まったりした・・。







こうした情景に私は見惚(みと)れたりした・・。

やがて歩き出して、橋から遠方にある桜並木を眺めたりした・・。




このような情景を眺め、桜花・・まもなく・・と思いながら、
自宅に向かった。

尚、この写真は私が自宅に帰還した後、
まもなくカメラを持参して、記憶のかたみとして撮った数葉である。

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