昨日、「神」について触れたところ、奇【く】しくも、きょう、4月24日付の長崎新聞のコラム「水や空」に神の話がありました。
コラムは、佐木隆三さんの直木賞受賞作「復讐【ふくしゅう】するは我にあり」の題名は聖書の言葉を借りていて、悪に復讐しようとする人間を戒【いまし】め、復讐は神に任せよと説いた言葉であり、新約聖書の「ローマ人への手紙」にある「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いているからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報【むく】いをする、と主は言われる』」と紹介しています。
そして、この言葉を長崎市長射殺事件に当てはめ、「復讐」を「無念を晴らす」に、「神」を「市民」に置き換えてみれば、長崎市民のなすべきことが、より明確になると論じています。
キリスト教では、そのように教えているのですね。私は、悲しいかな未だ信仰を持ちえていないので特定の「神」のイメージはないし、当然、どんな神の教えも知らない無学の徒なのですが、なにか人智【じんち】を超えて、自然界を支配しているような理法を創造している存在は感じるのです。
それが私の思う「神」なのですが、私たちの混乱は、もしかすると神への畏敬【いけい】の念を失ったことに因【よ】るものなのかもしれず、自然の摂理【せつり】をおろそかにしてきたことに因るものなのかもしれないと思うのです。
「『神』を『市民』に置き換える」など許されないことではないのでしょうか。もちろん、神によってです。
コラムは、佐木隆三さんの直木賞受賞作「復讐【ふくしゅう】するは我にあり」の題名は聖書の言葉を借りていて、悪に復讐しようとする人間を戒【いまし】め、復讐は神に任せよと説いた言葉であり、新約聖書の「ローマ人への手紙」にある「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いているからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報【むく】いをする、と主は言われる』」と紹介しています。
そして、この言葉を長崎市長射殺事件に当てはめ、「復讐」を「無念を晴らす」に、「神」を「市民」に置き換えてみれば、長崎市民のなすべきことが、より明確になると論じています。
キリスト教では、そのように教えているのですね。私は、悲しいかな未だ信仰を持ちえていないので特定の「神」のイメージはないし、当然、どんな神の教えも知らない無学の徒なのですが、なにか人智【じんち】を超えて、自然界を支配しているような理法を創造している存在は感じるのです。
それが私の思う「神」なのですが、私たちの混乱は、もしかすると神への畏敬【いけい】の念を失ったことに因【よ】るものなのかもしれず、自然の摂理【せつり】をおろそかにしてきたことに因るものなのかもしれないと思うのです。
「『神』を『市民』に置き換える」など許されないことではないのでしょうか。もちろん、神によってです。