峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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親子とは喜び合う関係

2008年07月20日 | 私塾
「目覚めた時思い付いた」 埼玉、父親刺殺事件(共同通信) - goo ニュース

父親と少女は『勉強しろ』と言われて『はい』という、やりとり以外の会話はあまりなかったという。

「子供が家で勉強しなくて困っています」というようなことを訴えられる保護者に対し、私は「子供に勉強してほしかったら、勉強しろと言わないことです」と常々申し上げている。なぜなら、勉強しろ・勉強しろとやかましく言われ、どんどん勉強するようになり、すくすく伸びていったというような子供を知らないからだ。その逆の例はごまんとある。

「子供に勉強してほしかったら、勉強しろと言わないことです」とお話しすると「言わなかったら、まったくしません。これ幸いと遊び惚【ほう】けています」とおっしゃる方がいる。
どのくらいの期間、それを言わなかったのか聞くと、せいぜい1週間くらいだ。私が「言わない」というのは一生のことだ。
もし、道に迷った子供がいたとして、その子にその子、本来の道を歩んでほしいと願うのであれば、彼に添う大人は腹を括【くく】らなければならない。

もともと、親と子の関係は極めて情的なものだろう。ご縁があって親と子の関係になれたことを喜び合い、美しい花を愛【め】でては喜び合い、人生を共に歩む伴侶【はんりょ】ができたことを心から喜び合えばいいのだ。
基本的に、知的なことを教え込もうなどとすると、せっかくのご縁で結ばれた親と子の関係を台無しにしてしまいかねないことにつながる虞【おそれ】がある。
商業主義や、つまらない常識に決して翻弄【ほんろう】されてはならない。
コメント
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