久しぶりに屋根を打つ雨音を聞いた。遠い昔、生まれ育った家の2階で聞いた音のようだ。そして、今日は静かに始まった。相変わらずTVでもネットでもさまざまなニュースが伝えられ、その批判やらが飛び交っている。昔、1億総○○化などという言葉があったが、1億総批評家(評論家)のようになった。
いいニュースでも必ず水を差すことが書かれている。さびしいなぁと思う。明らかに法的に罪と判断されたことなら別だが、もうすこし大らかになれないのかなぁと感じる。
200床の病床(緊急)を増やさなくてはならないとして、仮に10床でもできたとしたら(滋賀はそんものでした)それで、10人の人が治療を受けられたわけだ。そのことで10床で少ないではなく(200に対してはもちろんだが)ああ、10人の人が助けられたと思うのがいいのではないだろうか。
前にもブログで書いたが、私も自分のできないことばかり見てきて、人のできないことばかり批難してきた。それは豊かさをうまなかった。洗礼を受けて、「祈ることしかできない」と言ったら、シスターに「祈ることができるのです」と言われた。それは恵みで豊かさだった。特にこのコロナ禍の時、批判や批難ばかりでなく「ああ、一つ前進しましたね」と残りの190床よりも今日の10床を見ていけばいいのではないだろうか。あの人はあれもできないのに、こんなことをしたりしても仕方ないとか言っていてはますます暗くなる。
今日1日何ができたかな?今日は足を大事にして家で静かにしていたかな。8000歩歩かなかったではなくてね。そうすればいいニュースも入ってくるわ。
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