午後2時という一番暑い時間にサッカーの練習を取材していた。暑さなど関係ないように練習に集中している。うつくしいなでしこたちだった。取材の帰り、駅まで車で送ってもらった。気持ちのいい青年と思っていたら、今月末には二人目の子どもが産まれるという。うれしそうに話していた。男の子だそうだ。「父になる」ってこんな風に喜ぶんだ と思った。母になれない私は、父になる夫がそんな喜びを持つことを知らずに終わった。渡辺淳一が「男というもの」のなかで書いているように、自分の体で自分の分身が育っていることを知ることができない男は、ただおろおろとその分身の誕生に期待し喜ぶのだろう。素直な青年のよろこびように「父なる」とはこういうことなのかと思った。私の父もこんな風に喜んでくれたのだろう。
久しぶりに雨が降ると、集中豪雨。傘が邪魔かと思うとまた必要となる日でした。今日は、交通事故で入院した病院での診察の日。入院した時は、地理的な位置も分からず、横浜の山の中などと言っていました。ここではケガを治すためにただ寝ていることだけしかできませんでした。手厚い看護師さんたちの看護、知人たちの善意で私は大事なことにたくさん気が付きました。この事故は私から、運動すること、旅行すること、以前のように仕事をすることまでも奪いました。この病院に行くたびにそのことといやでも向き合わなくてはなりません。でも、、それは頭の中の理解で、心はまだ可能性を感信じてしまっているようです。そんな日の夕食、食事を二人でしようと思いました。誰とともに食事をするのかはわかりません。ただ二人の食卓を作りました。目の前に誰もいなくても、心が豊かでした。この豊かさが事故後に私が得たもののようです。なにか別の(私ものでない)エネルギーが私のなかで生きている。そう感じるのです。「ねぇ、結構おいしくできたわね」などと自画自賛して、二人の食事を終わりました。
お盆。そして終戦記念日。戦後70年の総理大臣談話にさまざまな意見が述べられています。思想や宗教を越えて「祈る」という1日にはならないのでしょうか。平塚市も空襲で焼け野原になったといいます。だから、街の道路は整然と整えられていて、それこそ平たい土地です。木が多く、起伏のある町に育った私にはどこか味気ない街でした。住まいの近くには木がないのですが、それでも夏の終わりを知ってか蝉が鳴いています。街の南に海があります。南向きに立っている住いのマンションには朝8時を過ぎると、海風が吹き出します。都会の風と違い、どこか海を渡ってくるようなひんやりした風です。この街に住んであるとき、一人の人の健康を祈るために街の教会に行きつきました。そして、洗礼を受けました。それが私自身のそれまでの生き方への終戦でした。今日は夕方から、平和の祈りを捧げに教会へ出かけようと思います。「主の平和を」
ここ何日か家族が亡くなられたご家庭(ご家族)と接しました。お通夜にしても、なにか淡々としていました。葬儀社がいまはそういう進め方なのでしょうか。「家族」とは? とふと思いました。そういう淡々としたものなのでしょうか。もし、別れた夫が先に亡くなったら、写真をみて彼を偲ぶだろうな と思うのです。ある時間を共有した人への思いはその当事者にしかわからないものなのですから。普通の夫婦の何十倍も一緒にいたせいではないのでしょうが、今は大切な人とは日常をともにしたくないのです。もったいない気がするのです。一緒にいることの安定感。それが夫婦なのでしょうが、私はどうもそれが苦手になりました。それがいい悪いではなく、自分の気持ちを研ぎ澄ましてきたような気がします。ずっと静かに(いや熱くかな)思い続けることで。誰もが私の家族になりうるというのか。それが私が神とで会っていただいたものかもしれません。
戦後70年。ここ何日か目にする終戦直後の映像や写真はまさに焼け野原。よくぞ、ここから立ち直れたと思う。昨夜、NHKのドラマ「戦後70年 一番電車が走った」を見た。広島市内を走る路面電車が、8月6日の3日後から再び走り出したという。運転再開に奔走した人々の実話をドラマ化したものだ。戦中は、女学生の少女たちが路面電車を運転していたという。初めて聞いた話だった。少女たちは16歳くらいだと言う。1時間15分間、テレビの前から動けなかった。セリフが少ない。主人公を演じた黒島結菜の演技もすごかった。私たちは、たとえ映像でも写真でもそれがドラマでも、もっと戦争を知らないといけない気がする。もっともっとその悲惨さを直視しないとならないと思う。