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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

漱石の妻

2016-10-09 10:51:25 | 日記
 不安定な天気が続きます。熊本では、阿蘇山の噴火。地震、台風、火山の噴火と人の力ではどうすることもできない自然災害が続きます。聖書(旧約)の中でもたくさんの自然災害が起こり、神という存在が浮かび上がります。「神」と「自然」というテーマは難しい問題です。

 昨夜、「夏目漱石の妻」をみていて思いました。漱石の妻は「悪妻」と言われていますが、彼女は「朝寝坊」ではあったけど、むしろ過ぎたる「良妻」ではないかと思うのです。「強い女」と「優柔不断な男」の縮図のように思うのです。(TVドラマでは)自分の父親との関係を切るのも「夫」を思って、漱石の養父との関係を切るのも「夫」を思って。強い女ゆえにできたこと。男は自ら関係を切ることはなかなかできない。時に、女は残酷なまでにそれをすることができる。そんな男を「卑怯」と言えるでしょうか。そんな女を「非情」と言えるでしょうか。男と女のそんなグレイゾーン。そこを越えたところに、夫婦の絆があり、男と女の絆があるように思えます。女にはわからない男の家族への思い、男にはわからない女のエゴの最たる夫への愛情。脚本家」池端俊策はそんことを知り尽くした人なのでしょうね。

 昨年、農作業用のトラックでドライブした阿蘇。無性に懐かしい。そんな日がまた来ることを神に祈ります。

 
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寄り添って

2016-10-07 23:15:18 | 日記
 2日ほど宮城松島へボランティアの取材で出かけた。今年で3年目。松島の海岸沿いの復興が遅れていた土地も今年は重機が入っていた。今年はあいにく雲で見えなかったが、松島湾にかかる月はうつくしい。万葉集か古今和歌集に、離れた土地の恋人と同じ月をみていると 思いが通じるというような和歌があった。時々、そんなことを思う。

 ほんの少しだけ、人の心に寄り添えたらと思う。今日は重い荷物を持つおばあさんの荷物を階段の上まで持ってあげた。ほんの少しだけ心が通じた気がした。つらそうな人の話を聞いたり、そっと背中をなでてあげられたら と思う。心がほんの少しだけその人に寄り添えたら・・・。

 でも、本当は、だれかに寄り添っていてほしいのかもしれない。その肩に寄りかかって、腕を組んで歩きたいのかもしれない。「ねぇーえ、・・・・・」と甘えたいのかもしれない。秋の夜は  物思いにふけるにはいいかもしれない。

 
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しあわせのベクトル

2016-10-04 09:08:23 | 日記
 台風が近づいているというのに、暑いくらいのいい天気だ。昨夜からマスコミはノーベル賞受賞の話題でいっぱいだ。仕事の関係で、大隅先生を存じ上げていたので、あの笑顔がとてもうれしかった。もう、15年近く前になるだろうか、あの笑顔は変わらない。

 その15年前くらいからは、論文数が評価の対象となったり、時代を行く研究に研究費が多く支払われる傾向があった。そんな中でも先生の研究のベクトルはぶれることなく顕微鏡の中にあったのだろう。特に、医学における心臓病や糖尿病の研究で当時、あれ?思ったいた先生の研究がいま、データ―ねつ造で問題になっている。ベクトルが違う方向を向いていたのだろう。人はやはり目指した方向でその結果が待っているのかもしれない。

 昨夜のNHKのプロフェッショナルは介護の話しだった。介護の若き改革者はしきりに「自分の居場所をみつけること」がその人の自信となり幸せにつながると言う。人生はその居場所探しかもしれない。すぐに見つかることもあれば、なかなか見つからないこともある。その居場所の中でも試行錯誤しながら、幸せな自分をみつけるのかもしれない。大隅先生は、「自分の好きなこと、興味を持つことをどんどんやりなさい」と話されたいた。

 幸せのベクトルがその方向に向かったときから、人生は変わるのかもしれない。同じようなベクトルを持った人に囲まれながら。

 

  

 
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信じる

2016-10-02 15:45:46 | 日記
 今日はミサに出かけられました。今日のテーマは「信じる」でした。司教様が禁煙をされた時のお話からでした。「読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー」という本のラストページ「あなたの人生最後の1本の煙草に火をつけてください」が最後の1本だったそうです。

 なぜか今日のミサは違う。そう思ったのは、ミサの中ごろでしょうか。ふと、昨夜見たNHKドラマ「夏目漱石の妻」の場面が鮮明に思い出されました。妻の鏡子が暴力を振るうなど様子がおかしい漱石が医師から「精神の病」だと聞いたとき、「病なのですか?病なのですね」と医師に攻めよる場面です。「病なら治せます。私が治します。私が家に戻り治します」と言います。その演技の迫力はすごい!としか言えません。そんなことを思い出して、涙が出てきたのです。なぜか今日のミサはパワーがあります。パワーが感性を動かしました。(この時、今日は司祭様でなく司教様のミサであることに気がつきました)

 離縁を考えていた妻鏡子が、夫漱石のために自分が家に戻って世話をすれば、「病」は治ると信じます。壮絶な日々だと思うのです。でも、ただ「そばにいれば治る」と信じるのでしょう。私は神を信じるものですから、単純に(あれこれ考えずに)神を信じて生きることを覚えました。信じることは、時に時間を要し、苦難も伴います。でも、なにかを手放しで受け入れること、それが物事をいい方向に動かしていくような気がしています。最近、私の感性を動かすものは「信じる」ということらしい。

 

 
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2016-10-01 11:17:26 | 日記
 カレンダーをめくるとあと2枚。1日、1日冬に向かおうとしている。夕焼けチャイムの時間が暗くなりだした。静かな秋に、読書も運動も思うようにできない。網膜剥離の手術をした眼は良いのか悪いのかよくわからないが、見えているからOKという感じだ。眼の手術の話を周囲にすると、白内障、緑内障、網膜の病気で目が悪い人がなんとも多いこと。「失明するのを待つだけ」と緑内障の友達は言う。みな、老後は読書を、編み物を、などなど考えていたのに・・・。できることは限られてきた。

 メールや電話がかかると、ご自身がご病気か配偶者やご両親が病気やその介護などの話題が多い。「長生きするのも考えてしまうね」とか「病気だから治療しなくてはならないし・・・」などなど悩みは尽きない。連日のニュースのオリンピック開催も、この国はそんなことにお金をかけていいのか とも思う。経済効果がどれほどでも、「不安」を持って生きる人が多いのに、なにがお祭りだ と思う。確かに、介護保険や社会福祉で介護などは助かる部分もあるが、メンタル面の上皿がない。奥様が2か月入院中、治る見込みはないけど少しでも楽にはしてやりたい、病院通いも疲れて、家に帰ると何もしたくない・・・そんな愚痴を言えるところはないのか。人生の終わりに来るのが老老介護とは・・・と言う。孤独で病や介護と闘う人が多い。病院へ行くとエネルギーを吸い取れれるような気がするという。なにか少しでもエネルギーをもらって帰れるところはないのか。病院内にそんなサロンでもあればいいのに。

 交通事故の圧迫骨折、網膜剥離と続き、私は人生の終わり方を考えるようになった。身辺はだいぶきれいになった。でも、整理しきれないものがある。秋の夜長はついそんなことを考えてしまう。 

 

 
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