( 高知西福音教会でのクリスマス礼拝 )
『今日、わたしたちは、両親の愛情に包まれた揺りかごの中ではなく、悲惨な尊厳の飼い葉桶に寝かされた子どもたちの問いかけを聞きます。その子どもたちは、爆撃を避けるための地下防空壕に、大都市の歩道に、移民たちがひしめくように乗る船の上にいます。生まれてくることができなかった子どもたち、空腹で泣く子どもたち、おもちゃではなく武器を持たされた子どもたちの問いかける声を聞きましょう。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2,7)ために、すべての扉を閉ざされたヨセフとマリアは、イエスを飼い葉桶に寝かしました。生まれたイエスは何人かの人々の拒絶と、多くの人たちの無関心にあったのです。
今日でもまた、クリスマスが神ではなく、わたしたち自身を主役とするお祝いになる時、商業的な光が、神の光に影を投げ掛ける時、贈り物のために心配していても、疎外された人々の存在に気付かない時、そこには同じ無関心があると言えるのです。
しかし、主の降誕には特に希望の味があります。なぜなら、わたしたちの闇にも関わらず、神の光は輝きわたるからです。神の優しい光は、恐れを与えません。わたしたちを深く愛される神は、わたしたちの一人となり、貧しく、か弱い存在となって、わたしたちの間にお生まれになり、その優しさでわたしたちを惹きつけます。
神はベツレヘムにお生まれになります。ベツレヘムとは「パンの家」という意味です。まるで「わたしたちのパン」としてお生まれになるかのようです。神はご自分の命をわたしたちに与えるために、命の中に来られました。神はご自分の愛をわたしたちに伝えるために、わたしたちの世界に来られました。むさぼるため、命令するためではなく、食べさせ、使えるために来られたのです。
こうして、飼い葉桶と十字架をつなぐ一本の糸が見えてきます。イエスは「裂かれたパン」となるでしょう。これは自らを与え、わたしたちを救うまっすぐな愛の糸です。そのイエスの愛が、わたしたちの人生に光、わたしたちの心に平和を与えてくれるのです。
あの夜、羊飼いたちは理解しました。羊飼いたちは、当時、疎外された存在でした。しかし、神の目には誰一人疎外されてはいません。それゆえに、まさに彼らが主の降誕に招かれたのです。自分に自信を持っている人、生活に余裕のある人は、その時家にいて、物に囲まれていました。これに対して、羊飼いたちは、お生まれになった救い主を見に、「急いで行った」(ルカ2,16)のです。
この夜、わたしたちもイエスから問われ、呼ばれるがままに、信頼をもって、イエスのもとに行きましょう。そして救いをもたらすその優しさに触れましょう。そばにいてくださる神にもっと近づきましょう。
マリアとヨセフと共に飼い葉桶の前にいて、わたしの命のパンとしてお生まれになったイエスを見つめましょう。イエスの謙遜な愛、永遠の愛を観想しながら、ありがとうを言いましょう。「わたしのために」してくださったこれらすべてに、ありがとうと言いましょう。』 (12月24日 バチカンでの教皇ミサ)
手話で 耳の不自由な方に メッセージを取り次ぎます。
合唱隊
ゴスペルフラ
司会の美子姉
子供達の演奏
私のハーモニカ賛美。 ドボルザークの 家路 と 知床旅情。
愛餐会 兄弟姉妹の奉仕で 美味しい食事と楽しい交わりの時が持てました。
司会の間に 昼食。 私も年に一度のネクタイ姿・・?
美子姉が活けた 花。