
息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)は第14代仲哀天皇の2番目の妻ですが、古事記では大后(オオキサキ)として特別扱いで、夫の仲哀天皇より長い記述がある、戦前の人なら誰でも知っている神功皇后(ジングウ)です。

さて、その神功皇后が夫の仲哀天皇と一緒に筑紫の香椎の宮にいる時、神懸かりとなって夫と意見の対立がありました。
その後、突然夫の仲哀天皇の死によって、自分の意見が通り(神の意志と言うことですかね)、朝鮮半島に攻め入ったそうです。
でもなんか、仲哀天皇の死の不自然さが、マクベス?リア王?の話のように、女王が重臣と謀って、王を暗殺したような感じがしてなりません。

神功皇后一行は三韓征伐しましたが、出発前には死んでいた夫仲哀の子供を身ごもっていたため、産まれそうだったお腹に石をくくりつけて出産を遅らせ、しばらくして生まれたのが第15代応神天皇です。
でも、これもうがった見方をしたら、夫が死んでからだいぶたってから生まれた子を、夫の子とするための策略で、実は夫の死後、重臣の愛人との間の子であったような気もします。
こんなことを書いたら、戦前なら不敬罪ですが、今なら「こんな人たち」ぐらいですみますかね。

三韓征伐後に、神功皇后と子の応神天皇は近畿へ帰りますが、その時に、先妻の子の香坂王(カゴサカ)と忍熊王(オシクマ)(応神天皇の兄にあたります)が反乱を起こします。(どちらかと言えば、神功皇后の方が反乱になるのでは?)
それを鎮圧した神功皇后は、日本書紀によると69年間摂政をしき、100歳まで生きて、夫や子供の陵がある大阪ではなく、ここ奈良市の狭城盾列池上陵(サキノタタナミノイケエノミササギ)に葬られました。

日本書紀が編さんされたのは、日本が朝鮮の白村江でボロボロに負けて、唐からの侵略の恐れもあった頃ですので、神功皇后の勇ましい三韓征伐の話などを作りあげて、昔は強かったんだと言おうとしたのか、又、神功皇后を卑弥呼となんとか結びつけようとしたのかもしれませんが、なんかここで、天皇家は今までの繋がりとは違った人に、とって代わられたような気もします。

仲哀天皇と、後日漢風諡号(カンフウシゴウ)を名付けた人は、偉大な日本武尊の子供として生まれたのに、皇后一派に殺されたかもしれず、あとを継いだ息子も、もしかしたら自分の子ではないかもしれない天皇だったので、「哀」なんていうなさけない字を入れて、仲哀天皇としたのかもしれませんね。

今回の神功皇后陵は奈良市の北の方、成務天皇陵などの近くにありましたので、入り口から参拝で陵に登っていく順番に写真を並べてみました。
この後は、近鉄平城駅まで歩いてすぐでしたが、この陵、正式には五社神古墳(ゴサシコフン)という、4世紀末ごろの前方後円墳で、そう大きく見えませんでしたが、第12番目の大きさです。
返事
花水木さん:昔の人名の漢字も読めなくて、憶えられなくて、
日本史で苦労しましたから、今の若い人を非難したくはないですが、
大人になってから、本人が苦労しそうな名前はやめてほしいです。
大雪男さん:阪神、ロードが終わったら、
4位になっていただけは勘弁して下さいよ!