島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

小野妹子1

2018-06-27 | 天皇陵巡り番外
  
 推古天皇の時代607年、第2回(第1回は600年か?)遣隋使として派遣され、隋の煬帝(ヨウダイ)(在位604~618年)の返書を帰路になくしてしまったされる小野妹子(オノノイモコ)、日本史でも学んだ有名な人物ですよね。
 その時聖徳太子が書いたと言われる煬帝を怒らせた国書「日出処の天子、日没する処の天子に致す・・・・」の話も有名です。
   
 その小野妹子の墓と伝えられているのは、聖徳太子や推古天皇の眠る大阪府太子町磯長の科長神社(シナガジンジャ)の横にありました。
写真は科長神社の鳥居、撮影立ち位置が小野妹子墓の階段下です。
    
 階段を上って行くと、丸く石の柵に囲まれた円形の墓がありました。
    
 中までも入れますが、中央は小山だけの円墳のようです。
まずまずきれいに整備されているのは、華道家元の池坊が管理されているからのようです。
    
 何故池坊管理かと言うと、587年聖徳太子建立の京都六角堂の初代住職(専坊)となった妹子が、隋で学んだ仏前に花を供えるという行為を六角堂でも続けていたので、「華道の祖」となったようです。
京都のへそ石で有名な烏丸六角にある西国第18番札所六角堂の、この正面写真の奥のビルが池坊のビルです。
   
 小野家は一応第30代敏達天皇から続く家系で、数々の有名人を輩出しています。
NHK大河「おんな城主直虎」で高橋一生が演じて名を上げた小野政次も小野家の子孫で、現在も小野家の子孫はいるようです。
 先ずは、私はこれまで全く知らなかった妹子の息子小野毛人(オノノエミシ)から。
小野毛人の墓は京都から八瀬大原を通る鯖街道の始まり、八瀬まで行く手前の崇道神社の奥に何故かありました。
    
 677年に没したとされる小野毛人の墓が、その頃はまだ未開の地であった京都の比叡山の麓の山中にある理由はわかりませんが、今年の冬に飛鳥資料館で見た国宝(コピーですが)小野毛人墓誌が出てますので、まあ毛人の墓でしょう。
    
 崇道神社から山道を登ってたどり着いた小野毛人墓は、なんとなく父の小野妹子墓をこじんまりとしたようで似ていました。
   
 
 途中にはこんな警告書が貼られていて、この切株も熊がむしったようで、山の中ですが自宅から歩いて行けなくはない場所で、これはちょっと浮ゥったです。
大声で歌を歌いながら、急いで降りてきました。

    返事
花水木さん:夾纈(キョウケチ)、三大染色法の一つです。
     途絶えていたこの染色法を友人が再現しました。

コメント (1)
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