紀橡姫(キノトチヒメ)(~709年10月21日)なんていっても、ほぼ皆さん知りませんよね。
前回の天智天皇第7皇子志貴皇子(後の春日宮天皇)の妃となって、難波女王と白壁王(後の第49代光仁天皇)を産んだ人です。
光仁天皇の産まれたのは709年11月18日と伝わってるので、橡姫は光仁天皇を産んですぐに亡くなったといわれていますが、産む1ヶ月前にはもう亡くなってることになるので、単純ミスですかね。
まあそれでも、死んでから60年以上も経って、自分の産んだ息子が天皇になってしまったので、即位の翌年には皇太后を追贈され、光仁天皇御母贈皇太后橡姫として、吉隠陵(ヨナバリノミササギ)【奈良県宇陀郡榛原(ウダグンハイバラ)】に葬られました。
さてこの吉隠陵、長谷寺と室生寺の間ぐらいのえらい山中にあります。
国道165号線から登って行くと、えらく大変だったとの訪問記事を読みましたので、鳥見山公園に行く道路(車の離合が難しい所もある道ですが)を車で登り、この浄水場辺りの少し広い所に車を停めて、家内には車で待ってもらって、この道路標識に従って山道に入りました。
雨が降ったら水が流れるような滑る山道を、道を間違えないように、熊や猪が出たらどうしようと思いつつ、やや息を弾ませて、15分ぐらい一気に登って、やっと参道途中の石段に到着。
165号線の正面から登ると、何とかこの石段にたどり着き、更にこの石段を250段登るそうですので、この見下ろした石段を降りて、石段の始まりを見るのはやめておきました。(浮ェりの私には寂しすぎでもありましたし)
本当に山の中にあります。
なんでこんな所と思いましたが、特に紀氏の地元でもないようですが、まあ昔は奈良から伊勢へ抜ける道の途中なので、日本の中でのここの地位は今よりずっと高かったとは思いますし、夫の春日宮天皇陵や息子の光仁天皇陵から、山は何個か越えますが、ほぼ真南の方向になります。
だいたい吉隠(ヨナバリ)なんてなかなか読めませんし覚えられませんが、隠(ナバリ)は近くに名張市(ナバリシ)があるので、ナバリの元の漢字かなあと、憶えました。
明治も半分すぎてやっと、この陵を宮内庁は治定したようですが、ここの山の草を牛馬に与えても食べなかったのが、治定の根拠になったという、なんとも言えない理由だそうです。
天智ー光仁ー桓武と、今の天皇家に直接つながる元になった母なので、身分は低くても、明治政府もほっとくわけにはいかなかったのでしょうね。
返事
花水木さん:前回・前々回の親子二つの天皇陵は、
そっくりでしたね。
それでなくても同じような写真ばかりですみません。
色々工夫はしてるつもりなのですがね。
「頑迷」なんて言葉はないのか、心配しましたが、
調べて有ってほっとしました、よく使ってましたので。