大覚寺の前身・離宮嵯峨院を建立した第52代嵯峨天皇の嵯峨山上陵(サガノヤマノエノミササギ)(京都市右京区北嵯峨)は、その大覚寺の北西にありました。
大覚寺から北西に少し歩いた(一度迷いましたが)、ここが陵への登り口です。
つづら折れの500段以上の石段を登らなければならないと、かなりしんどそうに紹介されていましたが、石段は綺麗に整備された直後で、まあ一気には登れませんでしたが、途中所々で振り返って嵯峨野を眺めながら休憩したので、それ程辛くはなく登れました。
以前紹介した大覚寺や大沢池も眼下に広がっていますが、こうしてみると、大沢池も意外と小さく見えました。
父第50代桓武天皇と母藤原乙牟漏(オトムロ)との間には、安殿親王(アテ)(後の第51代平城天皇)がいましたが、その同母兄に遅れること12年、786年に産まれたのが神野親王(カミノシンノウ)。
生れた時には父はもう天皇、同母兄の安殿親王はもう皇太子でした。
母の乙牟漏は、神野親王の4歳の時にはもう亡くなっています。
同母兄第51代平城天皇の病気による譲位を受けて、神野親王は809年平安京で即位し第52代嵯峨天皇(サガ)(786~842)(在位809~823)になりました。
皇太子には、同母兄平城天皇の皇子高丘親王(タカオカシンノウ)をたてました。
平城天皇の項で記したように、810年の薬子の変に対しては、迅速に行動してこれを平定、高丘親王も廃太子とし、今度は異母弟の大伴親王(オオトモシンノウ)(後の第53代淳和天皇)を皇太子にたてました。
以後は比較的安定した治世が続き、818年弘仁格(コウニンキャク)を発布し死刑を廃したり、文化面でも嵯峨天皇は空海・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)と共に三筆と言われています。
この辺りから平安京を舞台にした平安時代が始まりました。(私的には高校時代の日本史を学んでいた頃は、平安時代は退屈でしたが)
父桓武天皇もたくさんの子供に恵まれ、その子供たちが桓武平氏と言われる平氏一族になりましたが、嵯峨天皇も29人以上の皇妃達に50人の子供をもうけ、子の養育費が皇室財政を圧迫することを苦慮し、源姓を与えて臣籍に降ろす、賜姓源氏(シセイゲンジ)の初例を開きました。
多数の皇妃の内、皇后は橘嘉智子(タチバナノカチコ)で、その間には正良親王(マサラシンノウ)(後の第54代仁明天皇)をもうけました。
823年には異母弟の淳和天皇に譲位して上皇になり、淳和は嵯峨上皇の皇子正良親王を自分の皇太子にしました。
嵯峨上皇は淳和・仁明両朝においても家父長的存在として重きをなし続けたようです。
この嵯峨山上陵は陵の周囲をぐるっと回れましたが、丁度裏側には見た人は呪われると言われてる血の池が有ります。
有ったので見てしまいましたが、写真の様にやや赤っぽい感じの、大きめの水たまり程度の池でした。
こんな山の上には誰もいませんでしたし、浮「ので足早に後ろも見ずに、急いで陵を一周しました。
まだ呪いは、私には及んでいないようです。
嵯峨天皇陵の麓近くにある、嵯峨天皇のゆかりもある嵯峨釈迦堂清凉寺(セイリョウジ)、その境内の一画に嵯峨天皇の宝塔がありましたが、明治まではこれが御陵だったと清凉寺のパンフレットには書いてありました。
返事
花水木さん:
実は私の机の隅にはもう50年以上、
吉永小百合さんのこのブロマイドが飾ってあります。
若い時の一時期は、この写真の裏側に、今の家内の写真も入れていて、
友達などにばれないよう、隠れキリシタンのように、祈っていた時も有りました。
和さん:ランチは1300円で、
わずかにパフェが高かったですが、
「最高・・・ 」の映画の中で、
京都のからふね屋で吉永・天海さんが食べていたパフェは5万円なので、
まあこのチョコレートパフェぐらいが、私の最高の人生です。
「最高の・・・」映画は、特別に福江会館でも上映されたそうですよ。