島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

108-2後水尾天皇皇后和子

2022-07-10 | 天皇陵巡り

 プーチン大統領の暴力は完敗しない限りとがめられませんが、今回の犯人の個人の暴力は当然ですがとがめられます。

国家の暴力をいかにとがめていくか、今朝選挙に行ってきましたが、こんな選挙では難しいが、他の方法もなかなか見つかりませんね。

 5千年ぐらいの人間の歴史は進歩ないですね、若い時は進歩してると思っていたのに。

 そうして74年の歴史の私は、進歩なく相変わらずの天皇陵巡りです。

2代将軍徳川家光と浅井三姉妹の一人江(ゴウ)(淀君の妹)との間に産まれた7番目の子が、今回の徳川和子(トクガワマサコ)(1607~1678)です。

 写真泉涌寺の絵看板の一番上に、月輪陵が載ってます。

 第108代後水尾天皇(1596~1680)(在位1611~1629)が即位するとすぐに、徳川家康は孫の和子の入内を申し入れましたが、大坂の陣(1614・1615年)・家康の死去(1616年)・後陽成上皇の崩御(1617年)、そしてもう第1皇子賀茂宮(カモノミヤ)(1618~1622)がいることが判明した(1619年およつ御寮人事件)ことなどで、入内は延び延びになっていました。

  立派な月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山泉涌寺内)。

 徳川幕府の強引な手法で1620年入内し、後水尾天皇もしぶしぶ受け入れた和子(13歳)でしたが、二人の間には2男5女が産まれ、二人の男の子が夭折しなければ徳川家はずっと皇族になれたのですが、そこまでは叶いませんでした。

 それでも和子は後水尾天皇と幕府の間を取り持つ役目は十分に果たしましたし、修学院離宮の建設にも幕府は金を惜しみませんでした。

 和子の衣裳は京都の呉服商雁金屋(カリガネヤ)(尾形光琳・乾山の生家)で発注したので、雁金屋は繁盛したそうです。

  写真は横に廻って撮った月輪陵ですが、たくさんの人が葬られているので、石塔もたくさんありました。

 7人も出産し、慣れない京都の公家世界でしたが、彼女は72歳まで生きて(私は無駄に74年生きてますが)月輪陵に皇后として葬られています。

 制札3番目の天皇名明正(我が娘)と共に、ほぼ真ん中辺に後水尾天皇和子月輪陵とあります。

コメント (2)
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