島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

鞍馬街道17.

2024-02-27 | 京都へ、京都から

 またまた増田潔さんの本の地図を無断借用しています。

深泥池の五叉路から左の切通道を通る鞍馬街道を圓通寺まで行って、また引き返して深泥池沿いの古い東街道を、木野から京都精華大学まで行ったので、今回は地図の円通寺バス停から左に折れた道を矢印のように行きます。

この辺りは、ちょっと前までは草地や田んぼだけだったのですが、今は宅地開発されたため鞍馬街道の道がどれだったのか、判りにくくなってる感じはします。

 新しい住宅地の一画に栗栖野瓦窯跡(クルスノガヨウアト)の史跡がありました。

この辺りは飛鳥時代から平安時代に及ぶ大規模な古窯群があり、その中でこの栗栖野瓦窯跡は、官営瓦窯群として全国に知られていたようです。

平城京など奈良の町の瓦もここで焼いていたとは驚きですが、優秀なたぶん帰化人の職人がたくさん住んでいたのですかね、焼くための土はどの辺の土を持って来てたのでしょうね。

 そこからすぐの新興住宅街に残った山の上に幡枝八幡宮(ハタエダハチマングウ)が有ります。

八幡宮ですから第15代応神天皇とその母神功皇后が祭神です。

丁度秋のお祭りの準備中でした。

 894(寛平6)年山麓に地鳴りが起こり、新たな清水が湧き出たそうです。

これを知った第59代宇多天皇が、この山の頂に新宮を造営させ、男山石清水八幡宮より分霊を受けて、幡枝八幡宮と命名したそうです。

 以後祈祷を授かれば、

悪運が善運に転じ、婦人は難産を助け、諸願成就・家内安全・子孫長栄の恩恵があるそうですので、

 お賽銭もそれなりに出して、熱心にお参りさせていただきました。

   悪運も善運に変われい~!

 道は長代川(チョウダイガワ)に架かる頼光橋(ヨリミツバシ)に行き当たり、ここで切通道からの鞍馬街道と合流しました。

 源頼光(ミナモトノヨリミツ)(らいこうさんです)は大江山の鬼退治で有名ですが、その四天王の一人渡辺綱(ワタナベノツナ)と私はすぐ混同してしまいます。

 源頼光と四天王一行が鞍馬詣での帰りに、この橋近くで頼光を恨む鬼同丸(キドウマル)に待ち伏せされましたが、頼光に一刀のもとに切り捨てられたそうです。

 ここで鞍馬街道の西街道と東街道の合流点である二軒茶屋が見えてきました。

この辺りに、いつも離合に苦労した田舎道があったのですが、もうそれもどこだったか分からなくなっていました。

 次回は元々の鞍馬街道の出発点まで戻って、鞍馬街道の西街道を進むことにします。


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4 コメント

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Unknown (坂谷伸子)
2024-02-28 19:39:57
私も、源頼光と渡辺綱は混同して分からなくなります。ちなみに、五島の「バラモン凧」は、渡辺綱が、鬼に真正面から立ち向かっていっているところをモチーフにしていると書いている歴史書がありました。

昔は、真っ暗闇ですから、羅生門あたりでは鬼が人を襲い、魑魅魍魎が闊歩していたんでしょうね。
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Unknown (Toitenlabee)
2024-02-28 21:22:51
水が湧き出たという地鳴りのときは、まさか、地震だったんですか?そう言えば非常食の賞味期限を調べようと思いながら、ずっと忘れていることを今思い出し、また、忘れそうです。
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坂谷伸子さんへ (島の医者になって)
2024-02-29 07:04:16
 富江を去る時に貰った大きなバラモン凧が、8年間我が家の玄関を守ってくれています。
 
 月が無い時は、8時を回ると島は真っ暗がりでしたね、月が頼りになる旧暦に沿った生活はなかなか良い物でした。
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Toitenlaさんへ (島の医者になって)
2024-02-29 07:07:03
 偉い!
そうですね、地震だったんでしょうね、それで断層部から水が湧き出た。納得ですよ。
 このこともすぐ忘れそうですが。
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