島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

91-1後宇多天皇

2021-06-18 | 天皇陵巡り
  
 第90代亀山天皇(1249~1305)(在位1260~1274)の第2皇子で、母は洞院佶子(キツシ)(1245~1272)の世仁親王(ヨヒトシンノウ)は、1274年(イニナヨ蒙古)に8歳で即位しました。
(亀山の第1皇子同母兄の知仁親王(トモヒト)(1265~1267)は2歳で夭折してます)
 
 第91代後宇多天皇(ゴウダ)(1267~1324)(在位1274~1287)になった世仁親王ですが、父亀山上皇の院政に対しては、亀山の同母兄第89代後深草天皇(1243~1304)(在位1246~1260)は不満であり、持明院統の後深草に同情した鎌倉幕府は、後深草の皇子煕仁親王(ヒロヒト)(後の第92代伏見天皇(1265~1317)(在位1287~1298)を皇太子にたてました。
 
 後宇多天皇皇后には、伯父後深草上皇皇女姈子内親王(レイシ)(1270~1307)がたちましたが、これはロミオとジュリエットの皇室版の様な話なのですが、子供には恵まれていません。
  後宇多は母佶子と共にここに眠ってますが、父亀山・息子後二条・皇后姈子の分骨も一緒に眠ってますので、中でもめていなければ良いのですが
 
 宮人源基子(モトコ・キシ)(1269~1355)との間には後の第94代後二条天皇(1285~1308)(在位1301~1308)が、典侍藤原忠子(チュウシ)(1268~1319)には後の第96代後醍醐天皇(1288~1339)(在位1318~1339)が出来ています。
  陵は方形堂で内部に五輪塔があるそうです
 
 1274・1281年の2度の蒙古来襲来を乗り切って、後宇多天皇は1287年には譲位し、従兄弟の煕仁親王が第92代伏見天皇として即位したので、伯父にあたる後深草上皇が院政を敷くようになりました。
 こうして後宇多(大覚寺統)・伏見・後伏見(持明院統)・後二条(大覚寺統)・花園(持明院統)・後醍醐(大覚寺統)と、激しい両統迭立の時代が続きました。
  隙間から内部が見えるような見えないような、木と扉には菊の紋がちゃんとついています
 
 後宇多は後二条・後醍醐の両朝にわたり、11年ぐらい院政を敷いた後に、1321年に幕府の了解を得て白河上皇以来200年以上続いた院政を停止し、後醍醐天皇の親政が始まりました。
  参道両脇には小さな池がありました
 
 
 後宇多の院政は、その前半は善政を行い未代の英主と褒められてもいますが、実家同士の争いを越えて結婚した寵妃姈子内親王が亡くなった後は、出家し仏教にのめり込み賄賂政治にまで落ちてしまったとの評価だそうです。
 出家後は大覚寺を住まいにし、近くの山すそにある蓮華峯寺陵(レンゲブジノミササギ)(右京区北嵯峨朝原山町)に葬られました。
  池には亀も鷺も遊んでいました
 
 畑がどんどん住宅地になっていく右京区太秦安井池田町の、大きな駐車場ぐらいの敷地の立派な土塀に囲まれたお堂が後宇多天皇髪塔です。

      返事
Toitenlabeeさん:メダカは餌やるだけで、
    そのほかの手間はかかりませんよ。

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1 コメント

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Unknown (Toitenlabee)
2021-06-20 22:52:13
池の住人?かわいい。
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