これまで福永武彦訳 現代語訳古事記(河出文庫)に頼って書いていた天皇陵巡り、古事記はこの推古天皇で終わりです。
古事記の推古天皇の記述は、最後にしてはあっけなく、詳しくはもうじき出る日本書紀の方を読んでくれと言わんばかりに投げやりで、トヨミケカシキヤヒメノミコトは小治田宮(オワリダノミヤ)(奈良県明日香村)を作って37年間天下を治め、科長(シナガ)の大陵(オオミササギ)(大阪府太子町)に葬られた、と書いてあるだけでした。
第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛(キタシヒメ)との間に産まれた額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ)【豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)の方がなじみがあります】は、異母兄の第30代敏達天皇の皇后30≠Q廣姫(ヒロヒメ)の薨去後敏達の後妻として先ずは皇后になりました。
敏達天皇との間には、若死にしなければ天皇になった駐c皇子や、聖徳太子の妻になった菟道貝蛸皇女など2男5女をもうけ、母の堅塩媛と同じく多産で丈夫で長生きしました。
554~628年(在位592~628) 75歳で亡くなり、一番愛した息子の駐c皇子と共にこの磯長山田陵(シナガノヤマダノミササギ)に合葬されました。
第32代崇峻天皇が暗殺された後に、群臣の要請(馬子の要請ですが)を受けて豊浦宮(トユラノミヤ)(奈良県明日香村)で即位し、初の女帝第33代推古天皇(スイコ)になりました。
自分の夫第30代敏達天皇は異母兄ですし、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟になりますので、推古天皇の父第29代欽明天皇の子供は4人も天皇になったことになります。
複数の我が子を天皇にした天皇は何人もいますが、欽明天皇のように4人の子を天皇にしたのは、この1000年後の第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)だけです。
推古天皇は皇太子に甥の聖徳太子をたて、603年冠位十二階・604年十七条憲法の制定や、607年小野妹子の遣隋使派遣や朝鮮半島の動乱に兵を送ったりして、長きにわたり天皇の位についてる間に、聖徳太子も蘇我馬子も死んでしまいました。
推古天皇陵は、この写真のような、こんもりした高い堂々とした丘になっていました。
坂道になってる陵道から西の方、大阪方面を眺めると、花火でも有名なPL教団の塔が見えました。
返事
花水木さん:私のブログにコメントがなく、
他の人のブログに花水木さんのコメントを見つけると、
思わず嫉妬してしまいます。
ほんまにお忙しいようですが、忘れずにどうかよろしくお願いいたします。