島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

33-1推古天皇

2018-06-13 | 天皇陵巡り
    
 これまで福永武彦訳 現代語訳古事記(河出文庫)に頼って書いていた天皇陵巡り、古事記はこの推古天皇で終わりです。
 古事記の推古天皇の記述は、最後にしてはあっけなく、詳しくはもうじき出る日本書紀の方を読んでくれと言わんばかりに投げやりで、トヨミケカシキヤヒメノミコトは小治田宮(オワリダノミヤ)(奈良県明日香村)を作って37年間天下を治め、科長(シナガ)の大陵(オオミササギ)(大阪府太子町)に葬られた、と書いてあるだけでした。
  
 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛(キタシヒメ)との間に産まれた額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ)【豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)の方がなじみがあります】は、異母兄の第30代敏達天皇の皇后30≠Q廣姫(ヒロヒメ)の薨去後敏達の後妻として先ずは皇后になりました。
  
 敏達天皇との間には、若死にしなければ天皇になった駐c皇子や、聖徳太子の妻になった菟道貝蛸皇女など2男5女をもうけ、母の堅塩媛と同じく多産で丈夫で長生きしました。
554~628年(在位592~628) 75歳で亡くなり、一番愛した息子の駐c皇子と共にこの磯長山田陵(シナガノヤマダノミササギ)に合葬されました。
  
 第32代崇峻天皇が暗殺された後に、群臣の要請(馬子の要請ですが)を受けて豊浦宮(トユラノミヤ)(奈良県明日香村)で即位し、初の女帝第33代推古天皇(スイコ)になりました。
 自分の夫第30代敏達天皇は異母兄ですし、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟になりますので、推古天皇の父第29代欽明天皇の子供は4人も天皇になったことになります。
複数の我が子を天皇にした天皇は何人もいますが、欽明天皇のように4人の子を天皇にしたのは、この1000年後の第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)だけです。
 
 推古天皇は皇太子に甥の聖徳太子をたて、603年冠位十二階・604年十七条憲法の制定や、607年小野妹子の遣隋使派遣や朝鮮半島の動乱に兵を送ったりして、長きにわたり天皇の位についてる間に、聖徳太子も蘇我馬子も死んでしまいました。
 推古天皇陵は、この写真のような、こんもりした高い堂々とした丘になっていました。
    
 坂道になってる陵道から西の方、大阪方面を眺めると、花火でも有名なPL教団の塔が見えました。

    返事
花水木さん:私のブログにコメントがなく、
    他の人のブログに花水木さんのコメントを見つけると、
    思わず嫉妬してしまいます。
     ほんまにお忙しいようですが、忘れずにどうかよろしくお願いいたします。

コメント (2)
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32-1崇峻天皇

2018-06-10 | 天皇陵巡り
  
 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君との間に産まれた泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)は、欽明天皇の12番目の子供です。
その異母兄第31代用明天皇が早くに亡くなると、同母兄穴穂部皇子(アナホベノミコ)が物部守屋と謀って皇位を狙いましたが、蘇我馬子と豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)は穴穂部皇子を殺し、その勢いで物部氏も滅ぼしてしまいました。
     
 こうして蘇我・物部の積年の対立にも終止符が打たれ、泊瀬部皇子が倉梯柴垣宮(クラハシノシバガキノミヤ)に即位し第32代崇峻天皇(スシュン)になりました。
 近鉄桜井駅で自転車をひらき、押坂の舒明天皇陵に寄ってからここに到りました。
    
 崇峻天皇は大伴糠手(オオトモノムラジヌカテ)の娘小手子(コテコ)を妻として蜂子皇子(ハチノコノミコ)と錦代皇女(ニシキテノヒメミコ)をもうけ、また蘇我馬子の娘河上娘(カワカミノイラツメ)や物部守屋の妹も妻に迎えています。
 崇峻天皇陵の道標から坂を少し下ると、崇峻天皇陵の倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ)が見えてきました。
    
 蘇我馬子の後押しで、それほど皇位継承順位が高くない崇峻が天皇になったのですが、即位してからは二人の仲は離れて行き、猪を貰った崇峻天皇が思わず「この猪のように首をはねたい人がいる」というようなことをつぶやいたため、これを聞きつけた馬子は東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って崇峻天皇を殺してしまいました。
 天皇暗殺という一大事件は、正史である日本書紀にもはっきり書かれているのに、その後のことはうやむやになったぐらい、当時の蘇我馬子の力は強かったということでしょうか。
    
 その後の話として、下手人の東漢直駒は崇峻天皇の妃馬子の娘河上娘を奪って妻にしたため馬子に殺され、なんかケネデイ暗殺後の話に似ています。
 また息子の蜂子皇子は聖徳太子に依って東北に逃がされ、羽黒三山の開祖になりました。(宮内庁治定の墓もあり)
その息子を追って錦代皇女と共に東北に向かった小手子は、途中娘の錦代皇女を亡くし、福島にとどまって当地で養蚕の技術を広めた後、入水自殺をしたという、小手姫伝説も福島には残ってるようです。
   
 ちょっと悲劇的な感じがする崇峻天皇ですし、残すところ推古天皇だけになった古事記でもたった三行ぐらいしか記述されていませんが、その陵、円丘のようですが、水の流れる音が聞こえる周囲の様子や、陵自体のたたずまいから、私は好きな御陵です。
   
 ただし、そこから自転車ですぐに行けたこの巨大な円丘の赤坂天王山古墳(アカサカテンノウザンコフン)が、江戸時代には崇峻天皇陵とされていて、築造年代もあってるようですし、有名な藤の木古墳も崇峻天皇陵であるとの説もあります。

    返事
コメント無く寂しい思いをしております、皆さまどうかよろしくお願いいたします。

コメント (1)
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伝山背大兄王墓の西宮古墳

2018-06-06 | 天皇陵巡り番外
   
 聖徳太子と蘇我馬子の娘刀自古郎女(トジコノイラツメ)との間に産まれた山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウ)、すなわち第31代用明天皇の孫にあたりますが、聖徳太子像としてよく紹介されているこの絵の向かって右の童子です。(この見慣れた聖徳太子像も、最近は別人の説もあります)
   
 奈良県の北西部、生駒山系と矢田丘陵に挟まれるように、「ちはや振る神代もきかず竜田川・・・」の小倉百人一首でも有名な竜田川が流れる谷合に、平群町(ヘグリチョウ)があります。
町の案内看板には、平群の由来は、古代に都のあった奈良の桜井や飛鳥方面から見て、奈良盆地の北西の対角地域としての辺国(ヘグニ)がヘグリ(平群)になったと書いてありました。
   
 平群には天皇陵巡りの長屋王墓などがあるので、今回は近鉄電車で平群まで行って、その辺を歩きました。
 平群中央公園にあるこの西宮古墳(ニシノミヤコフン)伝山背大兄王墓は、一辺36ⅿの方形墳で、7世紀中頃から後半の築造と考えられています。
   
 石室は開いていて、その中にも入ることが出来るのです。
山背大兄王墓は、宮内庁によって斑鳩の法隆寺近くの富郷(トミサト)陵墓参考地(岡原古墳)が、そうであると定められていますが、そこは古墳時代中期の古墳のようなので、年代的にも間違いのようです。
そこにも行かなければならないのですが、わがままな私の都合でそこはやめて、年代的にも合致するこちら西宮古墳の方に足を運びました。
     
 京都を山城の国と言いますが、これは山背(ヤマシロ)が山城になっただけで、元の意味は平城京から見て奈良山の後ろ(背)にある地域からその名が産まれています。
 聖徳太子一族が住んでいた奈良斑鳩から見たら、矢田丘陵の後ろ側にここ平群はありますので、平群の西宮古墳に葬られたから、逆に山背大兄王という名が付いたかもしれない。
そう思うと、西宮古墳の方が真陵の可能性がますます高くなるのではないでしょうか。
    
 あまりこういう暗い狭い場所に入るのは苦手の方なのですが、石室の一番奥まで入って入口の方に向き直りました。
 くりぬき式の家形石棺の蓋はなくなっていますが、兵庫県産の竜山石(タツヤマイシ)(昔奈留高校の軟式野球部国体出場の応援に島から行った時に、寄った石の宝殿のあった辺りで採れる凝灰石)で出来てるそうで、なんかやけに綺麗で発泡スチロールで出来てるような感じさえしました。
    
 石棺の縁に穿ってあった盃状穴(ハイジョウケツ)らしき窪みを見つけました。
私がよく読んてるブログ「晴徨雨読」で、ジョンノビさんが盃状穴のことを調べています。(これを書くのが分かってたように、じょんのびかあさんから前回コメントが入ったのには驚きです)
これを見つけたことで感激したこともあるし、次の天皇の有力候補であったのに、蘇我入鹿によって滅ぼされた山背大兄王の墓の中にいるので、なんか霊気を感じたのか、浮ュなってきて早々に石室から這い出てきました。

    返事
花水木さん:「ちりとてちん」出演の吉弥さん、
    上手なのと性格で、関西落語会では人気ものです。
     この苺パフェ、下はコ―ンフレークばかりなので、それほど美味しくはなかったです。
じょんのびかあさんさん:お元気ですか!
     またN君主催のミニ同窓会にも顔出してください、皆喜びますよ。
      丁度今回盃状穴なので、この写真じょんのびさんにメールで届いていましたか?
商家の嫁さんさん:これまたお久しぶりですね!
    ブログ「Blue~」で隅に時々写ってるお姿は拝見?してますよ。
     小浜はかなり頻回に行くので、ぜひ美味しい店をメールなりこのコメントで教えて下さい。

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若狭へ2.

2018-06-03 | 
   
 前日予約で泊まったのは、小浜湾奥にあるうみんぴあ大飯のホテルうみんぴあ。
周囲には温泉や道の駅やエルガイアおおいなど、大飯原発の補助金?に依る豪華な箱ものがたくさん有ります。
昨年寄った時にはなかったDIYのナフコの店や食品スーパーまで出来ていました。
    
 夕陽を見ながら、我々と同じぐらいの人ばかりの泊り客に混じって夕食、向こうに見えるのが若狭富士ですと、ボーイさんが説明してくれました。
 じゃらん夕食の良かったホテル部門で近畿第1位と書いてありましたので、まあまあの夕食ですが、第1位とまでは・・・・。
すぐ横に入りに行く温泉は綺麗で、眺めもよく良かったですが、夜早く終わるのと朝は入れないのが欠点です。
   
 朝食前に海沿いを散歩、隣のこども家族館の前で、これまた朝の散歩をする地元一家にお会いしました。
    
 立つ位置間違いました。
私はやっぱり、左のお爺さんの前に立つべきでした。
    
 カバの親子にもバカにされてしまいました。
    
 帰りは舞鶴を廻って帰りますが、舞鶴の五老ヶ岳公園にも寄りました。
ここから見る舞鶴のリアス式海岸は、朝のTVの「す・またん」(大阪地方ローカルの情報番組)のお天気カメラの映像が、これだと確認したかったからです。(先週のTVでも、ここだと言っていたので、先取りになりました)
    
 50ⅿほどの五老スカイタワーにも昇り、もう少し上からの景色も確認、舞鶴湾なかなか綺麗ですよ。
近畿100景第1位選出らしいですが、これまた第1位とまでは・・・。
  
 タワーの下にはスカイタワーの入場券(200円)で100円安くなる店があって、それにつられて本日15食限定のイチゴパッフェを食べてしまいました。
食べてる時に家内にメールが入り、ちょっとした用事が出来たため急遽帰ることになりました。
帰り道の京北町の道の駅で食べた鴨ステーキ丼(850円)、値段にしては美味しい。
で、若狭の旅は終わり。

     返事
花水木さん:さすが「ちりとてちん」は、
    息子さんが落語家になる前でも観ておられたのですね。

コメント (3)
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若狭へ1.

2018-06-01 | 
   
 思いついて、計画もなく若狭へ、先週1泊旅行に行くことにしました。
いつものように鯖街道を走って小浜へ、天気も良く波も穏やかそうなので、蘇洞門(ソトモ)めぐり遊覧船に乗ることにしました。(2000円)
   
 1時間に1本の時間待ちに、出航地若狭フィッシャーマンワーフで、ノドグロの寿司をちょっと食べて、10人ぐらいの同世代観光客と一緒に乗り込みました。
 五島の海上タクシーよりは少し大きい船で、波がない海岸線を走ってるのですが、スピードを上げると少し揺れます。
    
 年中水量が変わらない白糸の滝、この上にワサビが栽狽ウれていて、この崖をワサビを持って上がり降りしていたとのことです。
 いろいろな名前が付いた奇岩など綺麗ですが、海や島を見慣れてしまった私には、これで2000円とはちょっと物足りないと思っていました。
   
 でも、最後の「大門・小門」が見えてきて、ここでは船を降りて見物も出来るようです。
   
 小さな桟橋から上陸、5分ほど近くの滝を観たり出来ました。
   
 天気も良く海も綺麗、なかなか良いタイミングで蘇洞門めぐりに来たようです。
   
 小浜の浜にある小浜公園にも、縮小された「大門・小門」がありましたが、その横の「雅(ミヤビ)」で昼食、今までも2~3回入ったことがある店です。
   
 今日の私は素直に鯖寿司定食。
    
 珍しいので一緒に頼んだ穴子のおとし、見かけは鱧のおとしそっくりですが、私的には鱧より穴子の方が歯ごたえがあって美味しく感じました。
写真は、後の祭りです。

     返事
花水木さん:わずかに残った田畑も、
    近くの農家は農薬を使わなかったので、蛍戻ってきたようです。
     京都の家の外にはハイエナは出ないと思いますが、
    家の中のサイにはいつも十分気を付けています。
大雪男さん:五島にいる時、
    若松島と島山島では鹿を見ました。

コメント (1)
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