島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

兵庫県の旅3.

2022-07-18 | 

 湯村温泉の朝は雨、朝風呂も入って、朝食はこれまた旅館風朝食でしたが完食しました。

 旅館を出立する頃には雨もあがり、少し行った道の駅の案内所で近くの喫茶店情報を教えてもらい、養父(ヤブ)のケーキ屋さんに寄りました。

 メニューの「アフォガート」が解らなく、イタリアのデザートでソフトクリームに温かいエスプレッソをかけた物と説明うけて食べました。

写真は地味ですが、田舎にしてはハイカラで大人の味と、珍しい物を食べたと思っていましたが、帰って娘夫婦に尋ねると、即答で「知ってる、コンビニにもある」と言われてしまいました。

 妻はメロンケーキセット、大きいので少し分けてもくれました。

807年にもう発見されてた生野銀山、開坑1200年以上です(1000円)。 

入り口右横には、この旅行三つ目の滝「不動滝」まで付いていました。

 観光坑道は約1㎞を歩きます。

途中にはたくさん人形が飾ってあり、一部は動きます。

 坑内の気温は13℃ということで、夏の旅にふさわしいと生野銀山を選びましたので、もちろん涼しかったです。

 写真は江戸時代に働いていた人です。

 生野銀山は鉱量枯渇により昭和48年閉山されたのですが、私でもなんとかこの人と一緒に働けた可能性はあります。

 涼しくて気持ち良かったですが、私は閉所恐怖症、家内も閉所は苦手なので、他の観光客を追い抜いて、私を置いてどんどん先に進んでいきますので、よけい怖くなった私もどんどん前に進み、短時間で観光終了、出てきた外は蒸し暑かったです。

 鉱山で働く人達の人気投票(選抜総選挙)が行われていて、この7人形が銀山ボーイズ鑿(ノミセブン)です。(しずかちゃんはいますが?)

 私的には、鉱山の外でトロッコに乗る老運転手が一押しでしたが。

 今回はコロナ割引なしの旅でしたが、倍々ゲームで増えている新型コロナ感染者、1年前の7月には日本の感染者100万人越えと驚いてたのに、この1年で今度は1千万人越えになりましたが、話題からはやや遠ざかってしまいました。でも私も、少し自粛したほうが良いかもしれません。

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兵庫県の旅2.

2022-07-15 | 

 日本屈指の高熱温泉である湯村温泉に泊まりました。

848年慈覚大師によって発見されたという古湯です。

湯村温泉の中心地、春来川の辺にある「荒湯」では、98℃の高温泉が豊富に出ていて、ゆで卵も作れます。

 山陰の鄙びた湯治温泉を一躍有名にしたのは、昭和の終わりごろにNHKで放映された吉永小百合さん主演の「夢千代日記」です。

「続夢千代日記」も作られ、私はこれを観てから再放送の「夢千代日記」を観たような気がします。

「新夢千代日記」も作られたそうですが、この記憶は私にはありませんが、秋吉久美子・樹木希林・緑魔子など懐かしいです。

 荒湯近くには、吉永小百合の夢千代像が立ってました。

 300円以下なら入ってみようと言ったら、丁度300円だったので入館した「夢千代館」、たいしたものはなかったですが、皆がいつもしゃべってる部屋のセットの再現などもあって懐かしく、あらすじも再確認できました。

 春来川沿いにも有名人の手形が並ぶ「ふれあい手形散歩道」がありましたが、夢千代像のある夢千代公園には、吉永小百合さんの手形がありました。

 吉永小百合さんの右手と、左手です。ちゃうか?!

 今も私の勉強机の隅には、ややほこりにまみれていますが、吉永小百合さんのブロマイドが飾ってあります。

これは私の大学時代からずっとですが、大学時代後半はこのブロマイドの裏には、左手の持ち主のその頃の写真が入っていました。

この写真を撮った後、今も妻の写真が入っているかなと、何十年ぶりかで裏を開けましたが、入っていませんでした。

 旅館の夕食は、久しぶりの大広間で、品数や量が多く皿も平凡な、いわゆる旅館料理でした。

楽しみにしていた刺身6種盛りも、まあまあぐらいの味で、さすがの私も食べきれず、たくさん残してしまいました。

 しかしながら、部屋の風呂も源泉かけ流しで、ゆったりと何度も入れましたし、お湯は素晴らしい40年ぶりぐらいの湯村温泉でした。

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兵庫県の旅1.

2022-07-13 | 

 新型コロナ感染はまた爆発的に増えてきましたが、そんな状況にも関わらず、今度は兵庫県の北西部の温泉に一泊旅行に出かけました。

 朝食も食べずに朝早く出発、1時間ぐらい走って、コメダ珈琲でモーニング、久しぶりに小倉あんのトーストも食べました。

 中国自動車道に少しだけ乗って山崎ICで降り、宍粟市(シソウシ)を道の駅に寄りながら北上します。

 最初の道の駅の駐車場の向かいに、うっそうと茂る森のような神社を発見。

2000年近く前に創建の播磨国の一の宮である伊和神社(イワ)で、1万7千坪の境内は森でした。

 本殿裏にある鶴石です。

一夜にして杉・檜が群生し、大きな白鶴2羽が石の上に北を向いて眠っているのを見て、そこに社殿を造営したという伊和神社、私は全く知りませんでしたが、なかなか立派な神社でした。

 道の駅にあった宍粟市の観光案内から、道中に「日本の滝100選」に選ばれてる「原不動滝(ハラフドウダキ)」があることを知りました。

 道を少し外れるだけで駐車場に到着、観光客も管理人も誰もいませんが、この写真の小さな受け皿に500円を入れると、吸い込まれていきました。

そこから500ⅿほど整備された道を歩くだけで滝に着くのですが、200円の入園料を取る場所にも人はいず、料金箱もありません。

私だけならそのまま帰りますが、私よりずっと真面目な家内は、帰りに又この穴に二人分400円を投入していました。

 意外と高く長いつり橋の「かえで橋」を、まず渡らなくてはなりません。

こわごわ、しかし特派員魂から家内に支えてもらって、写真も撮りました。

 「奥かえで橋」という行き止まりのつり橋が滝見台になってる「原不動滝」。

落差88ⅿで三段状になってると書いてありますが、ほぼ二段にしか見えません。

左から女滝が寄り添うように滝つぼに流れ落ちることから「恋愛成就の滝」「幸福の滝」と言われていて、水量も多くすごく立派な滝でした。

 上段の滝の傍に立つ一本杉がアクセントになって、絵にもなりました。

 目的地湯村温泉着までまだ時間は有ったので、途中の道路標識を参考にして、また「日本の滝100選」とある「雨滝(アメダキ)」にも寄りました。

ここも少し道を外れただけで、最近整備された駐車場にすぐに着き、そこからは綺麗な階段を少し下がるだけで、桂の大木の向こうに「雨滝」は見えてきました。

 幅4ⅿ高さ40ⅿですが、近づくと立派な「雨滝」、それなりに涼しいので、夏は滝見に限ります。

簡単に行ける神社仏閣や城や滝が有ると、ついつい寄ってしまう私の旅、この後長く続く狭い落ちそうな山道を「対向車来るな!」と祈りながら国道9号に出る旅となりました。

       続く  

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108-2後水尾天皇皇后和子

2022-07-10 | 天皇陵巡り

 プーチン大統領の暴力は完敗しない限りとがめられませんが、今回の犯人の個人の暴力は当然ですがとがめられます。

国家の暴力をいかにとがめていくか、今朝選挙に行ってきましたが、こんな選挙では難しいが、他の方法もなかなか見つかりませんね。

 5千年ぐらいの人間の歴史は進歩ないですね、若い時は進歩してると思っていたのに。

 そうして74年の歴史の私は、進歩なく相変わらずの天皇陵巡りです。

2代将軍徳川家光と浅井三姉妹の一人江(ゴウ)(淀君の妹)との間に産まれた7番目の子が、今回の徳川和子(トクガワマサコ)(1607~1678)です。

 写真泉涌寺の絵看板の一番上に、月輪陵が載ってます。

 第108代後水尾天皇(1596~1680)(在位1611~1629)が即位するとすぐに、徳川家康は孫の和子の入内を申し入れましたが、大坂の陣(1614・1615年)・家康の死去(1616年)・後陽成上皇の崩御(1617年)、そしてもう第1皇子賀茂宮(カモノミヤ)(1618~1622)がいることが判明した(1619年およつ御寮人事件)ことなどで、入内は延び延びになっていました。

  立派な月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山泉涌寺内)。

 徳川幕府の強引な手法で1620年入内し、後水尾天皇もしぶしぶ受け入れた和子(13歳)でしたが、二人の間には2男5女が産まれ、二人の男の子が夭折しなければ徳川家はずっと皇族になれたのですが、そこまでは叶いませんでした。

 それでも和子は後水尾天皇と幕府の間を取り持つ役目は十分に果たしましたし、修学院離宮の建設にも幕府は金を惜しみませんでした。

 和子の衣裳は京都の呉服商雁金屋(カリガネヤ)(尾形光琳・乾山の生家)で発注したので、雁金屋は繁盛したそうです。

  写真は横に廻って撮った月輪陵ですが、たくさんの人が葬られているので、石塔もたくさんありました。

 7人も出産し、慣れない京都の公家世界でしたが、彼女は72歳まで生きて(私は無駄に74年生きてますが)月輪陵に皇后として葬られています。

 制札3番目の天皇名明正(我が娘)と共に、ほぼ真ん中辺に後水尾天皇和子月輪陵とあります。

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108-1後水尾天皇

2022-07-06 | 天皇陵巡り

 第107代後陽成天皇(1571~1617)(在位1586~1611)は、第1皇子覚深入道親王ではなく自分の弟の八条宮智仁親王(トシヒト)を次期天皇に立てることを希望していましたが、徳川家康政権は豊臣政権色の薄い第3皇子、近衛前子(サキコ)(1575~1630)の産んだ政仁親王(コトヒトシンノウ)を推したので、しぶしぶではありますが、政仁親王が第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)(1596~1680)(在位1611~1629)となりました。

それ故、父後陽成が死ぬまで、後陽成と後水尾親子の仲は良くなかったようです。

  月輪陵制札2番目に後水尾天皇の名がありますが、一番目は江戸時代のずっと前の第87代四条天皇です。これはたぶん四条の父第86代後堀河天皇の陵が近くにあるからだと思います。

 成立初期の徳川幕府は、朝幕関係に神経を使っていましたが、それは朝廷に対して優位に立つ方向に力点が置かれ、1615年には「禁中並びに公卿諸法度」が発令されています。

  月輪陵は大きく、ここより中には入れません。

 また幕府は、第1皇子が生まれていた後水尾天皇の後宮に、これを排斥してまで、家康の孫になる徳川和子(マサコ)(1607~1678)を1620年に入内させました、気乗りしなかった水尾天皇ですが、和子との間に2男5女をもうけています。

 女の人を好きで元気だったんでしょうね、他にもたくさんの妃達に、20歳前から60歳近くまでにわたって、後水尾天皇は34人の皇子女を産ませています。

  正面の門には金の菊の御紋が輝いています。

 徳の高い僧侶に紫の法衣(ホウエ)着用の勅許(チョッキョ)を、徳川幕府が一方的に無効にした紫衣事件(シエ)(1627年)が起こり、最後には沢庵などが出羽などに配流(ハイル)になったので、怒った後水尾天皇は幕府の了承を得ずに譲位、女帝ですが家康の孫にあたる第109代明正天皇が即位しました。

 以後水尾上皇は、この第2皇女明正・第4皇子後光明・第8皇子後西・第19皇子霊元と我が子4人の天皇にわたって院政を敷きました。

 兄弟姉妹2人や3人が天皇になったことはありますが、兄弟姉妹4人が天皇になったのは、千年以上昔の敏達・用明・崇峻・推古以来2度目です。

  写真の月輪陵の手水鉢も、屋根付きの立派なものでした。

 300年以上後に昭和天皇に抜かれるまでは、明確な記録が残る歴代天皇中最高齢の85歳まで生きた後水尾上皇は、50年以上の上皇生活で仏教特に禅宗へ没頭したり、芸術面でも和歌を千首以上作ったりしたそうです。

 江戸幕府もこの上皇の為に(嫁入り先でもあるので)、比叡山の西南に修学院離宮を造設しています。

  私は修学院離宮も行ったことないので、その南にある後水尾天皇所縁の谷の御所霊鑑寺(レイカンジ)の写真をあげておきます。

 月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山)に葬られていますが、写真は相国寺内にある後水尾天皇髪歯塚です。

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