『恐怖の双発高翼機フライト(中國の渤海湾口の洋上飛行、青島発―大連行き)』
―今後の海外出張は、ジャンボ機か、または船にしたいと―
およそ30年ほど前のことですが、きれいな昔の儘と言われる青島市街を、美味しい中国海鮮料理をご馳走になった後、うっとりと青島の街並みを見ながら青島流亭空港に向かいました。 この時以来、日本のビールは別格ですが、デンマークのカールスバーグから、中国の青島ビールのファンになりました。
写真(1)霧に霞む青島の住宅地(今なお残るドイツ風の町並み)
写真(2)双発高翼機
先ずはウエブ情報です。
青島は山東半島の南海岸の膠州湾の東側に小さく突き出た半島の先端に位置する。 北東は煙台市、西は濰坊市、南西は日照市とそれぞれ接する。市街は比較的平坦で、すぐ側に丘が並んでいる。 市域内の最高点は 1,133 メートルになる。海岸線の長さは 730.64 キロメートルに及び、長さ50 キロメートル以上の目立った川は5つある。
温暖多雨気候 に属する。 青島は海に面しているため風が強く、気候は夏は涼しいが、冬は厳しい寒さである。 夏の平均気温は摂氏 23.8 度(7月)で、冬の平均気温は摂氏 -0.7 度(1月)となる。梅雨はないが、7月と8月は雨が多い。
日清戦争後、三国干渉で中国に恩を売ったドイツは、太洋艦隊の寄港地となる軍港を中国沿岸に確保しようとした。 膠州湾一帯に目をつけ、1897年に宣教師が山東で殺された事件を口実に上陸し、翌1898年には膠州湾を99年間の 租借地とした。 膠澳にはドイツ東洋艦隊の母港となる軍港が建設された。
ドイツは、青島をドイツのモデル植民地として街並みや街路樹、上下水道などが整えられ、今なお残る西洋風の町並みや青島ビールなど、ドイツがこの町に与えた影響は大きい。
第一次世界大戦でドイツ帝国に宣戦布告した日本は1914年膠州湾のドイツ要塞を陥落させて占領下に置き、ヴェルサイユ条約の条項により山東省(青島・膠州湾租借地)における特権の譲渡を受ける予定であったが、抗日活動が活発化したことから、1922年の条約により山東鉄道等を含む権益を部分的に北洋政府に返還した。
1937年日中戦争が始まると、青島は再び日本軍の占領下に置かれた。 第二次世界大戦後には青島は米国西太平洋艦隊の司令部所在地となったこともある。 しかし1949年6月2日中国人民解放軍が青島に入城し、中國共産党政権の支配下に置かれた。1984年の鄧小平時代に対外開放され、近代的な港湾都市として発展している。
さて、天候は曇り、少し風が強い日でしたが、搭乗手続きが済んで、搭乗するころには、かなり空がどんよりとしてきました。 周囲を見ると、渤海湾の湾口を跨いで、大連まで約1時間のフライトですので、20名あまりの搭乗するお客様も全く気候を気にしてませんでした。
飛行艇のようなデザインの双発高翼機の離陸はスムースで、安定してましたが、その後は高度(2,000―3,000ⅿ)も大したことはないのに揺れること、その後の揺れは、まるで、あたかも、横風(空港以外でも受けるのか)、ウインドシア(エアポケットに落ちる)、小さなマイクロバースト(下降気流擬きに落ちる)がまとめて、一緒にきたような感覚でした。
自慢ではありませんがプロペラ機は二度目でしたのが、今後の海外出張は、ジャンボ機か、または船にしたいと、『大の大人』が思いました。 それほどの『恐怖の双発高翼機フライト』でした。
(20200907纏め #217)