『日本の城郭 5-2(石垣山一夜城はハコモノだった?)』
―巨大城郭小田原城を陥落させた後、関東初の総構え石垣城が廃城同様に―
石垣山一夜城散策、箱根登山鉄道の入生田駅から石垣山一夜城に登る裏側ルートは4度、車で登った表側ルート2回を加えると合計6回になりました。 山城でいつも心配になるのは、井戸(水源)でした。
石垣山一夜城(手前の早川を前にした天然の要衝の山城)
ウキぺデイアより引用
小田原城(武田軍・上杉軍も落とせなかった巨大城郭)
ウキぺデイアより引用
一見『水』に苦労しそうな山城、久留里城や安土城等も、天主(天守)閣や本丸のある頂上部の近くに自噴井戸や深堀抜き井戸があったのに驚きと同時に、縄張りに抜け目がなく、『流石』と思いました。
この『石垣山一夜城』は、数万人を動員して3カ月弱で築城をしています。 秀吉・官兵衛、名将・名参謀の本格的な築城であったようです。 建設中には小田原城側の樹木は切らず、完成直後に切り払い『一気に見せて敵の戦意を削いだ』と言われています。 5月20日付けの浅野長政の文書には、現地の報告として、『日番と夜番の二交代制で、昼夜休む事のない突貫工事が行われていて、その規模は大坂城や聚楽第にも劣らない』などという事が書かれています。
朝鮮出兵に備えた10万人住める城下町の、総構え城郭『名護屋城』を、およそ8カ月で完成していますので、その『名護屋城』の規模との比較からみても、『石垣山城』をだれが呼んだのか、『一夜城』と呼ぶには、もったいない程の本格的築城であったと考えます。 ましては、天皇の勅使をこの城で迎えていますので。
さて表題の『日本の城郭 5-2(石垣山一夜城はハコモノだった?)』―巨大城郭小田原城を陥落させた後、関東初の総構え石垣城が廃城同様に― 戻ります。
『石垣山一夜城』の建物は、瓦葺であった由。 現在も城址からは瓦が出土するとの事ですが、その出土した瓦の中に、北条氏政・氏直父子が小田原城を開城した翌年の年号の銘が入っていたので、小田原城の落城・開城後も『石垣山一夜城』の建設が続いていたと言われています。 今となって立証も極めて困難でしょう。
この総構えの山城の城郭に、豊臣家からも、徳川家からの城主は出ておらず、『廃城』なっています。 徳川家の『豊臣家への備え、豊臣恩顧の西国大名への備え』には『石垣山一夜城』は不要となり、それに変わる『駿府城』と『小田原城』の大改築があったのが真相のようです。 結果的には『石垣山一夜城』は、今流にいう『ハコモノ』に終わったようです。
昭和の終わりから平成の初めかけての『ハコモノ』は、いかがであったでしょうか、安土桃山の『ハコモノ』と比較、考え込んでしまいます。
(20200926纏め、#227)