『「六義園」の黒松・赤松は、松くい虫にも負けず、現代でも健やか!』
―春夏秋冬楽しめる大都会のコンクリートジャングルのオアシス―
東映のチャンバラ映画では、大概、悪役になる江戸時代の『太平の世の梟雄・スピード出世の柳沢吉保』の下屋敷は、現代では、アマチュアカメラマンにはたまらない庭園『六義園』です。 とにかく、四季を通じて、被写体と撮る時間を選り好みすると、その時間配分が大変です。
いち藩士から幕臣として大出世、そのスピード出世ですが、これが凄い;
『徳川綱吉の小姓から川越藩七万石、老中上座、松平の姓を与えられ美濃守吉保となり、甲府藩十五万石を領する。 学問奨励の・萩生徂徠の登用等文治政治の推進者として評価される。正徳4年(1714)歿、57才。』と。
さて、六義園の被写体ですが、内庭大門、出汐之湊、妹山・背山、臥龍石、蓬莱島、石柱、滝見之茶屋、躑躅茶屋、藤代峠、蛛道、渡月橋等々、いろいろあります。
これほど多い庭園の『パーツとその組み合わせを被写体』として理解するためにも、江戸時代の大名の藩邸の役割を調べてみました。
徳川幕府の260年の長期政権を維持できた、その背景の、ほんの一部が解ります。 御三家も大名も、徳川家本家を守るために江戸城の周りを、御三家と大名の、上屋敷・総構えの内側の屋敷(藩主が住む)、中屋敷・総構えの外側の屋敷(奥方,、側室、子息が住む)、下屋敷・総構えからかなり離れたところに屋敷(他の目的、別荘など)を構えていました。
これは、意外と思えますが、織田信長の安土城の裾野の大手門から頂上の天主閣(信長だけが天守閣でなく天主閣)への合坂の両側の家臣団の屋敷の縄張りが『元祖』と思えます。
前置きが長くなりました、表題の『「六義園」の黒松・赤松は、松くい虫にも負けず、現代でも健やか!』―春夏秋冬楽しめる大都会のコンクリートジャングルのオアシス―になります。
六義園(5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保の下屋敷の大名庭園)
江戸城からは少し離れていますが、いざ鎌倉って時には役に立ちそうです。
ウィキペデイアより引用
藤代峠(豪快な築山からの展望、かなり高い・剛毅なもの)
このアングル『大都会のコンクリートジャングル』の一角とは見えません。
ウィキペデイアより引用
先日、六義園を散策したときに、庭師の方から伺いました。『ここの黒松も、赤松も、今まで松くい虫に、一本もやられていない』そうです。 『何故かは、はっきり解からない』とのことでした。 ズブ素人の推測ですが、コンクリートジャングルの中に、隔離された庭園であり、かつ、高木・亜高木・低木・下草で構成された『本物の森』であったからでしょうか
『桃栗三年、柿八年』に続くのは、いろいろありますが、先ずは『柚子は九年でなりかかる』、『柚子は九年の花盛り』,『柚子の大馬鹿十八年』などと続くと言われます。 昔の人は、柚子にも豊かな観察眼を持っていました。 最近の人工物は『やっつけ仕事』が多いですね。
(20200928纏め #230)