『サメが泳ぐパナマのコンタドーラ島の岬の沖、波高1ⅿの海を水上スキーで滑って無事戻れた!』
水上スキーで凄まじい経験をさせてもらったのが『中米のマイアミ』と最近は呼ばれている『コンタドーラ島・Contadora』は写真(1)の中央の小さな島です。
写真(1) コンタドーラ島の位置
先ずは、この島についてのウエブ情報です。
パナマ湾に浮かぶマリンスポーツがさかんな真珠諸島(Archipielago de Las Perlas)、その中心地の島、コンタドーラには国際級のホテルがある。ここは、時のスペイン国王、イザベラ女王に献上した世界最大の天然真珠が採れた地でもある。
イランを追われたパーレビ国王が住んだ島もある。 モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー( Mohammad Rezā Shāh Pahlavi)、1919年-1980年は、パフラヴィ―朝イランの第2代にして最後の皇帝(シャーハンシャ―、在位:1941年-1979年)である。パフラヴィー2世とも呼ばれる。亡命前後の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。 父である先代の皇帝レザー・シャーの退位により即位し、「白色革命」を推進してイランの近代化を進めたが、イラン革命により失脚した。
モハンマドはその後癌治療のためという名目で皇后らとアメリカに移ったが、アメリカがその入国を認めたことに反発した学生らが1979年11月4日にテヘランのアメリカ大使館を占拠してモハンマドの身柄引き渡しを求めるという、イランアメリカ大使館人質事件が起きた。
この事件によりアメリカとイランの関係は決定的に悪化した。モハンマドはこの事件の発生を受けて12月5日にアメリカを離れパナマへ向かった。 その後、モハンマドと「兄弟」と呼ぶほど親交のあったエジプトのサダト大統領に受け入れられ、翌1980年7月27日にカイロで失意のうちに死去した。なお、イスラム革命後のイランはエジプトと断交した。
ファラー・パフラヴィ―皇后は、サダト大統領の暗殺後、アメリカのロナルド・レーガン大統領の庇護を受け、再び渡米。 一家はアメリカ東部に居を定めた。
『水上スキーで凄まじい経験』ができたのは、当然ですが『この島に。イランを追われたパーレビ国王が住んだ年』の半年ほど前のことです。 さて、表題の『サメが泳ぐパナマのコンタドーラ島の岬の沖、波高1ⅿの海を水上スキーで滑って無事戻れた!』に戻ります。
写真(2)のようにコンタドーラ島には、砂浜ビーチが二ヶ所ありました。 手配してあったツインエンジンのスピードボートと操縦士が待っていてくれたのは向かって右側の砂浜ビーチでした。 久しぶりの滑走でしたので最初は
二枚のスキー板で慣れたら一枚にと、慎重に始めました。
この日は運が悪く波高(波の頂上から谷底まで)が30-40㎝ほどありました。 スキー板二枚では何とか滑走できましたが、やはり、スキー板一枚で滑走したくなりましたので、操縦士に『もう少し波の静かなとこはないですか』とたずねました。 『隣の砂浜ビーチ(写真(2))に行ってみましょう』と。
行ってみると隣の砂浜ビーチも、ほぼ同様に波高30-40㎝ほどでした。 この島と海岸の状況が解って入れは、九十九里海岸育ちには、波の状況は想像はついたのですが、状況判断が甘かったです。 夕方は日中よりは波が荒くなるのは知ってましたので、すぐに元の砂浜ビーチに戻ることにしました。
写真(2)で解りますように、二つの砂浜ビーチの間の半島は、なんと大げさに言えば『ミニリアス式海岸』でした。 帰路ですが、半島にかかるころから、波高が1ⅿほどになってました。 スピードボートの底が波頭を打つ音がバンバンと聞こえ始めると同時に、スピードボートと水上スキー(自分が履いてる)の間の距離が変わります。 その時の対応は、たわんだロープを水平にするためにロープについたハンドルを自分の胸に近づけたり、万歳をしたりを繰り返して、ロープがピンと張るようにする動作を、半島を回りきるまで続けました。
この動作の繰り返しを一生懸命やってましたので恐怖は感じませんでした。 もちろん、土用波もある九十九里海岸育ちですので、波高1ⅿの外国の海でも、岸が見えるところは、問題なしです。
写真(2) 島全景と二つの砂浜ビーチ
写真(3) 半島
元の海岸に戻って半島を見て、安心したときに、操縦士の一言『この海にはサメがいるんですよ』と、早く言ってくれれば陸路を歩いたものを。
(20200902纏め #214)