知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『日本の城郭 13(織田信長も攻めあぐんだ山城・小谷城)』 ―この小谷城の不思議な縄張りを探る―

2020-12-07 22:33:59 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 13(織田信長も攻めあぐんだ山城・小谷城)』

               『この小谷城の不思議な縄張りを探る』

この小谷城には、戦国の攻城戦よりも、中国の古代王朝時代にあったストーリーにも負けないような、歴史上の波乱万丈の美姫のロマン大絵巻、市姫(織田信長の妹)の物語がありますが、この市姫・お市の方の子孫についてはあまり知られておりません

戦国大名・織田信長の妹で、信長とは13歳離れている。 通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされている。 信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉という。 初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。

子に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子(江の娘、息子)など。徳 川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。また、今上天皇の先祖に当たる人物でもある。

余談、前置きが長くなりました。 表題『日本の城郭 12(織田信長も攻めあぐんだ山城・小谷城)』―この小谷城の不思議な縄張りを探る―に戻ります。

一般に山城は、『独立峰』、『独立した丘』、『尾根の先端』、『尾根のY又はX字交点』、『一本尾根の最高部』等に築城されます。 この小谷城は、一方の尾根に本丸を中心とした城郭を配し、谷あいの城下町を馬蹄形に囲うように、谷の反対側の尾根にも出丸を築城し、城郭・出丸で防御ネットワークとしています。

小谷城防御ネットワークは、大嶽城(左峰)と本城(右峰)が連携して、難攻不落の威を誇っていました。

ウエブ情報『信長苦戦ス! 姉川の合戦と小谷城の謎』の抜粋・引用です

1573年8月、織田信長は浅井長政の居城小谷城(滋賀県長浜市)を攻め、その際、長政が妻(市)と娘の三姉妹(茶々・初・江)を信長に託した話は有名です(『浅井三代記』)。 しかし、信長はその小谷城を攻め落とすのに3年もかかっています。

落城の3年前1570年6月、信長は朝倉義景を討つべく越前に侵攻し、金ヶ崎(敦賀市)を落としますが、そのとき信長の耳に、「長政離反」の一報がもたらされました。 長政は信長の義弟。 そのとき、信長はすぐには信じませんでした。 が結果は、信長は命からがら京へ逃げ帰ることになります(金ヶ崎崩れ)。

信じていたぶん、信長の怒りは激しいものでした。 その年の6月、信長は裏切り者の長政を成敗すべく、大軍を率いて長政の居城小谷を包囲しました。

しかし、織田軍の勢いもそこまで。何しろ、小谷城は峻険な山城。天下に名高い堅城を、そう簡単には攻め落とせません。

旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』の記述をみるかぎり、両連合軍の兵力は、「織田29,000・徳川5,000」(計34,000)に対して、「浅井8,000・朝倉10,000」(計18,000)の兵力差がありました。 しかし、ほぼ3倍の兵力を誇る織田勢は、浅井勢に押しまくられ、『甲陽軍鑑』によると、十五町(約1.6㌔)も後退させられます。 ところが徳川勢の奮戦によって、ようやく逆転勝利を得たといいます。

日本の山城には、次の3種類があります。

古代山城 ;飛鳥時代から奈良時代の畿内から九州北部にかけて築かれた。

中世山城 ;中世・戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。

近世山城 :安土桃山時代後期から江戸初期までに築かれた。

この小谷城は、中世山城、 または、近世山城 に入りそうですが、縄張りを見ると、古代山城にも見えます。 これからの課題になりました

                     (20201207纏め #255 )

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