『空海の凄さ様々 1(満濃池の大修復) 2022/07/10改訂』
『「空海の風景」は、生前の司馬が最も気に入っていた作品とみどり夫人が』
香川県 満濃池(写真右下がダム)
ウェブ情報情報(満濃池ダムの画像)から引用
満濃池ダム(ソイルフィルダム・土堰堤)初代ダムは今のダムより少し下だった)
ウェブ情報情報(満濃池ダムの画像)から引用
満濃池の歴史
701~704年 (大宝年間) 讃岐の国守 道守朝臣がつくる。
821年 (弘仁12年) 嵯峨天皇の命令で弘法大師空海が再築
1184年 (元暦1年) 洪水により堤防がこわれる。 約450年間修理されないままになり池の中に人が住み、 「池内村」となる。
1628~1631年 (寛永5~8年) 西嶋八兵衛が再築。
現在の満濃池のダムの高さは32ⅿですが明治から昭和にかけて3回の嵩上げで、10ⅿほど高くなっていますので空海が大修復をした当時は高さ22ⅿ、貯水量は、500万トンで、現在の1540万トンの約三分の一です。
『満濃池』は空海が造ったとものと、昔からずっと思っていました。 それから、改修しただけだったと言われていたことを知ったのは、だいぶ後のことでした。 とこらが、最近この大修復の事実を知れば知るほど『空海の凄さ』が分かりました。 ウェブ情報です。
「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年~704年)に讃岐の国守道守朝臣の創築と伝えられています。 しかし弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使路真人浜継が復旧に着手しましたが、技術的困難と人手不足によって改修がならず、国守清原夏野の発議により、弘仁12年(821年)空海が築池別当として派遣されました。 空海が郷土入りをすると人々は続々と集まり人手不足は解消し、唐で学んだ土木学を生かして、わずか3ヵ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。 朝廷は空海の功を賞して富寿神宝2万を与え、空海はこれによって神野寺を池の畔に創建しました。
大宝年間の初代の満濃池は現在の位置よりも少し川下の谷川が縊れた位置に『直線』のソイルフィルダム(土堰堤)で造られていた。 当時、この初代ダムの高さは不明だが、空海はこれを少し川上に位置を変えて、ダムの高さは22ⅿ『アーチ型』のソイルフィルダム(土堰堤)とした。
それよりまして凄いことは空海が「築池使」として讃岐にやってきたのが822年の6月、そのわずか4ヵ月後の9月には帰京している。 大修復というよりは再構築、この時代としては、巨大な構築物で、ごく最近まで、1300年余も日本最大の溜池で、讃岐平野の農地を潤してきた。
ソイルフィルダム(土堰堤)の維持・保守は、台風とモンスーン気候の国では難しいようで、『12世紀末に、洪水により堤防がこわれ、約450年間修理されないままになり、池の中に人が住み、「池内村」となる。』と記録があります。
かんがい用ため池として名実ともに日本一である満濃池の歴史は、大宝年間(701年~704年)にはじまり、讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)が築いたといわれています。しかし、弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使真人浜継(まびとはまつぐ)が復旧に着手しましたが、改修がならず、空海が築池別当(つきいけべっとう)として派遣され、わずか3ヶ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。
この大修復について調べてみました。
ため池は、水さえ溜めればいいというわけにはいきません。堰と同じように、そこから農地まで水路を引いてこなければならない。ということは、農地よりも高いところに造らなければならないということになります。さらに、ため池から水を抜く構造が必要になります。10mも水が溜まると水圧はかなりなものとなります。木製の取水口を人の手で開け閉めするわけですから、その構造には高い技術が要求されました。また、ため池の水は、底に溜まった水よりも表面にある水の方が温かく水質も良いので、表面から取水するような工夫もなされています。
満濃池では図のように、ため池の水位に応じて、5ヶ所の堅樋(取水口)から底樋を通して水を流す工夫がなされています
ウェブ情報から引用
満濃池の竪樋と底樋 画像提供:満濃池土地改良区
空海が考案したといわれる堤防改修のポイントはふたつ。
❶堤防の形をまだ当時の日本には見られなかった「アーチ型」にしたこと。 現在のダムなどでは当たり前の形なのですが、これにより堤防にかかる水の圧力が分散されて、より水圧に耐えられる、決壊しにくい堤防になるということ。
❷水抜き路と言える「余水吐き」と呼ばれる設備を付加したこと。 雨季になると溜池の水かさがどんどん増えて水量はコントロールが不 可能になって、決壊する恐れがある。余分に溜まった水を溜池の外に流し出す調整溝を作ることにより決壊を未然に防ぐというもの。
これらのアイデアは空海が土木建築にも精通しており、唐であらゆる分野で学んだ一つの表れと言えるのかもしれません。しかもこれらの工法で整えられたこの溜池の堤防の基本形は現在に至るまで継承されている。
『満濃池』を、土木技術で大修復した空海は、思想・芸術、それに学問・技術の諸分野でも時流に抜きんでていた『万能・博識の大天才』、です。 本題に戻ります。
本人の名言『虚しく往きて、実ちて帰る』、数年の準備期間をかけて準備万端の留学であった。 周囲から期待されたエリートコースの大学をやめて、数年経過した時点での入唐決意。 準備万端の空海だから言える『虚しく往きて・・・』と(頭脳を空・無にして留学)。
こうも言っている『たまたま志願者が少なかったので、留学僧の末席につらねてもらった』と、これって『ウイット・ユーモア・エスプリ・アイロニー、それとも、空海のこと、もっと深い意味が・・・』。
遣唐使廃止前の、遣唐使末期であり遣唐使の選抜基準・試験の記録がほとんどない環境でもあり、こんな皮肉を込めてのコメントになったのかもしれません。
空海の偉業の一環です。 曜日・七曜はヨーロッパから伝わったのではなく、空海が9世紀初めに唐から持ち帰ったもので、『宿曜経』という占星書に書かれています。
そこで余談です
先輩に紹介されて夢中になって並行読み中の、新しい本『系外惑星と太陽系』岩波新書、2017.2.17初版。 何故か、稀有の大天才の空海を偲んでいます。
空海の伝記本・小説は沢山ありますが、昔、読んだのは、司馬遼太郎氏の『空海の風景』と、最近読んだのが高村薫氏の『空海』です。
『空海の風景』は、第三十二回(昭和50年度)芸術院恩賜賞文芸部門受賞作で、平安時代初期に密教を独自に体系化し、真言宗の開祖となった空海を扱った作品。 世間では『坂の上の雲』構想5年半・連載4年半を含め、約10年を費やした作品を、司馬氏の『ライフワーク』と言うが・・・。
司馬夫人の福田みどり氏によると『「空海の風景』は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬した』と言われた。
(記事投稿日:2018/04/21、 最終更新日:2022/07/10、#172)