知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』   ―お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い―

2023-01-30 07:32:57 | 歴史・日本

『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』

『お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い』

 

20210418の日経新聞の文化欄で、標題の備忘録を作成することになった、安部龍太郎氏のエッセイ『家康とお市の方』を見つけました。 この興味あることが、今後の課題となり、国会図書館通いを再開したいと思いました。

 ウキペディアから引用 

お市の方の姫子・三姉妹、淀殿(長女・茶茶)、京極高次の正室(次女・初)、徳川秀忠の正室、(三女・江)、明正天皇は『江の孫』と、彼女らがあまりにも有名ですが、今回、彼女らの母についてもよくわかりました。 『この三姉妹の母・絶世の美女のお市の方は、凄さと、波乱万丈と、数奇な運命です。』

 

赤文字はエッセイから(タフな課題ですが時系列に並べると疑問も!)

数奇な運命に翻弄された戦国一の美女・お市の方の生涯

 

生年       天文16年(1547年)

浅井長政と結婚  永禄10年9月(1567年) 20歳(当時としては晩婚)

(長政は主家の六角氏の家臣・平井定武の娘と婚約してい たが、お市の方 との婚姻により破談となった。 二男三女を、二男は実子かどうか不明。)

6年後小谷城陥落 天正元年8月(1573年) 浅井長政自害

 

徳川家康と婚約  天正10年5月(1582年) 信長が親代わりで婚約

 

本能寺の変    天正10年6月(1582年) 信長横死

柴田勝家と結婚  天正  10年8月(1582年) 

(織田家筆頭家老・勝家と秀吉の申し合わせでお市の方は  柴田勝家と再婚することになった。 婚儀は岐阜城で行われ、勝家の居城・北ノ庄城に三姉妹と共に入った。)

 

徳川家康に進上物 天正10年8月(1582年)  お市の方から家康思いの証と

信長の義弟と表現 天正10年11月(1582年)ルイス・フロイス書簡に明記

 

勝家と共に自害  天正11年3月(1583年) 享年37歳

 

信長・秀吉・家康の三英傑はそれぞれ凄いと思ってきましたが、ここに、お市の方を加えたいほど、この方は凄い、信長の言いなりに政略結婚に振り回されただけとは思えず、それとも、『強い自分』の意志で生きたのか、分からなくなりました。

 

このエッセイの冒頭にこうありました。 以下は抜粋です。

『「信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました」 そんな話をすると、多くの方が怪訝な顔をされる。 中でも歴史に詳しい方は「冗談でしょ」と取り合おうともなさらない。

 

これまで戦国時代に関する万巻の書物が上梓されているが、2人の婚約について記したものは(管見の限り)1冊もない。 だから一笑に付されるのも致し方がないが、これは紛れもない事実である。

 

私がそうではないかと思い始めたのは、家康の重臣松平家忠が残した「家忠日記」の天正10年5月21日の記事を読んだからである。 安土城からもどった者から、信長が手ずからお膳を据え、麦こがしを引いて家康主従をもてなしたと聞いた。 (天正10年6月2日早朝・本能寺の変の12~13日前)

 

その上信長は引き出物に、帷子を2つずつ与えたが、その内1つは、女性用の紅の生絹(すずし)だったという。 しばらく考えているうちに、これは三日夜の餅と三日夜の絹ではないかと思い当たった。 

 

婿取り婚が一般的だった平安時代、男は女の家に忍んでいった。 そして一夜二夜と共に過ごし、三夜目になれば婚約が成立したと見なし、女の父が三日夜の餅でもてなし、女の着物を三日夜の衣としておみやげに持たせた。

 

信長がこれと同じ形で家康をもてなしたのは、お市の父親替わりとして婚約を祝ったものではないか。 そう考え、お市と家康の関係を証明する記録はないかと資料にあたるようになった。 

 

すると同じ「家忠日記」の天正10年12月11日の条に次のように記されていた。

「古府(甲府)へ出仕候、明日帰陣候への由、仰せられ候、越前芝田(柴田)所より、しちら30巻、は綿百杷に、鱈5本なり。 家康はこの頃、本能寺の変後の豊饒と対立していたが、和議が成立、帰陣することになった。

 

そんな折に、越前の柴田勝家のところから『御音信』があったのである。 家忠の敬語の使い方を見れば、贈り物をしたのは勝家ではなくお市の方だと分かる。 贈り物の、しちら30巻、は綿百杷で、綿入れをつくって寒さをしのいでという心遣い。 鱈は正月料理に欠かせない北陸の名産品である。 勝家との政略結婚後も家康に思いを寄せ、こうした贈り物もしたらしい。』

 

(お市の方の政略結婚を決めたのは信長で、信長は、この半年前に本能寺の変で横死、今回の結婚は大嫌いな秀吉が決めているし、勝家とは一年半余の結婚生活だったが、家康への贈り物の4ヵ月後には、勝家と一緒に自刃している。)

『信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました』ということよりもお市の方と3人の姫子・三姉妹に俄然興味が湧いてきました。

(記事投稿日:2021/04/19 、最終更新日:2023/01/30、#319)


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