知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」 2』 『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』と

2022-09-19 18:17:29 | 歴史・日本

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」 2』

『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』

『五つの風土記(常陸・播磨・出雲・豊後・肥前)と逸文からも、検証を』

 

脳医学者 中田力氏の『日本古代史を科学する』からの卑弥呼

『「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼が活躍したのは三世紀半ば、240年前後のことである。 推定誤差を考慮しても数理考古学的解析よる神武天皇の即位以前であることは間違いなく、「記紀」にもある天照大神が卑弥呼に比定できる可能性が極めて高い。 邪馬台国が宮崎平野にあったことと併せて考えれば、「記紀」に書かれた高天原の神話は邪馬台国を中心として始まった大和朝廷成立までの初期の歴史をデフォルメしたものとも考えられる。』 

『天照大神は禊(みそぎ)で生まれた神である。 禊とはイザナノミコトが火の神「カクツチ」を生んだ時の火傷がもとで死んだ妻「イザナノミコト」を追って黄泉の国を訪れ、その変わり果てた姿を見て逃げ帰った時、汚れを落とすために行った清めの作業である。 様々な神が生まれたが、左目から天照大神、右目からツクヨミノミコト、そして鼻からはスサノオノミコトが生まれた。』 

『やがて高天原は天照大神に、黄泉の国はスサノオノミコトに受け継がれることになる。これらの話は、高天原と黄泉の国とが現存した二大勢力であったことを意味する。 黄泉の国が出雲に比定されているように、高天原を卑弥呼の邪馬台国に比定すれば、天照大神とスサノオノミコトの競い合いの神話はまさに、大和朝廷(九州の)と出雲の間に起った歴史そのもの記載したものといえる。

 

文学博士 義江明子氏の『つくられた卑弥呼』の卑弥呼

ウエブ情報から引用

『邪馬台国の女王卑弥呼。 日本人なら誰もが知っているこの女性について、教科書で「すぐれた巫女であり、人に姿を見せることもまれで、弟が彼女を補佐して実際の政治を行っていた」と習わなかっただろうか。 しかし、この卑弥呼=神秘的巫女説は、実は近代に創られたものである。 本書は『魏志』倭人伝のほか、『風土記』『古事記』『日本書紀』の伝承を、木簡等の新出史料や古代女性史研究の成果をふまえて丁寧に読み解き、卑弥呼を“戦う”王ワカタケルと同種の、政治的実権をもった王として位置付け直す。 卑弥呼に象徴される古代の女性首長たちの実像を明らかにし、現在の女帝論議にも一石を投じる衝撃の論考。』 

つくられた卑弥呼<女>の創出と国家

本のタイトルを見ると、ジェンダーギャップを意識できる時代になったなと思います。 以下、今後の勉強のために、ウエブ情報「ヒストリア」の抜粋・引用の備忘録です。 

『この本では、今まで、だれもが持っている卑弥呼についてのイメージは『すぐれた巫女であり、人に姿をみせることもまれで、弟が補佐して実際の政治を行っていた。』そんな卑弥呼像に、『実際はどうだったのか』を問いかけています。 

魏志倭人伝だけにとらわれず、広く古代日本の女性社会へ目を向け、卑弥呼以外にも多くいた女性首長たちの残像を探り、律令以前の日本社会を女性の立場から見つめなおしています。

 

第一章『風土記の女を読む

『風土記』の世界には、男の土蜘蛛と、女の土蜘蛛がいた。  土着勢力は土蜘蛛にせよ、女神にせよ活躍内容に男女の別はほとんどなく、女性も男性も同じように、抵抗したり、恭順したり、争ったり、占ったり(当時の政治)している。 古墳の墳墓主からもそれはある程度裏付けられており、武器を副葬した女性墳墓も多くある。 ただそれでも、女性の活躍が「巫女」とだけに限定されがちなのは魏志倭人伝で、卑弥呼が「巫女」であり、男弟が政治を助けた、とあるため。

 

第二章『魏志倭人伝

いままでなにげなく現代語訳のまま理解していた魏志倭人伝ですが、著者いわく、そこには相当、男性視線の中国人観があるそうで(当時の中国は既に徹底した父系社会)書かれている倭人伝の記録には、隠された実像が多くあるようです。 

男女の別なく集まったという「会同(集会)」一夫多妻であったのに「妬忌(嫉妬)しない女たち」そこには父系社会視点からでは決してわからない新しい邪馬台国が見えてきます。(女たちが嫉妬しなかったのは、要は、一夫多妻でなく、多夫多妻だったからということみたい) 

奈良時代以降の戸籍の分析をもっても、八世紀ころまでの古代日本は、母方父方双方と密接にかかわりを持つ双系社会であり、父系でたどろうとする戸籍の手法は現実とだいぶズレがあり、分析上つじつまの合わない点が多くあるそうです。

そう言われてみれば、平安時代も、妻問い婚。 女性の貞操についてはある程度うるさいものの、子供は母方で育つし、人妻や、年頃の姫のところに忍び込んで、いったりし、源氏物語の主人公はいまから考えるとずいぶん勝手なことをしている。 

そこまで時代をあげなくても、万葉集の中で皇族・豪族の姫君たちは、おおっぴらに不倫めいた歌をたくさん残しているし、・・・ちょっと説得力あって面白すぎる。 

中世以降、日本も完全な父系社会になるのですが、それ以前の古代という世界を、根本から見つめなおすのに、非常に必要なのに、忘れられがちな視点を、この本は教えてくれます。

話を卑弥呼に戻すと、ヒミコとワカタケル(雄略天皇)を比較して、巫女と武王という、まったく違うイメージのこのふたりが、中国や朝鮮の外交使節にはともに直接姿を見せないでいるのに着目して、ヒミコもワカタケルと同じように、戦う王だった、可能性を指摘しています。 

また、男弟が卑弥呼の政治を助けた、ということを指す、「佐治」というキーワードを著者は、稲荷山鉄剣の銘文と比較して、「佐治」はあくまでも政治を補佐する意であり、卑弥呼自身が政治を行わず、巫女に専念したことにはならない、としています。 他に、卑弥呼に給仕したという「男子一人」が夫であったかもしれない可能性を指摘。

 

第三章の「飯豊王の物語を読む

飯豊青尊(いいとよのあおのみこと)は雄略天皇の次の清寧天皇が跡継ぎの子がなく亡くなったときに、雄略の父・允恭の兄である、履中天皇の娘である飯豊王が、甥である顕宗(弟)仁賢(兄)が即位するまでの間政務をつかさどった、とされる女性で、推古天皇以前の女帝として古代史上カウントされることもある方なのです。

このお方。 日本書紀に「与夫初交(まぐわい)したまう」としっかり書かれてしまっている、気の毒な方なのです~(いいですか~宮内庁)女の道は知ったけれど、男はもういらない、という続きになっていて、結婚はされなかったようなのですが。 伝承の世界の方とはいえ・・・現実味のある表現で書かれていてビックリ。 

とはいえ、卑弥呼との対比として考えると、卑弥呼も「与夫初交」しなかったとはいえない? 古代最後の女帝、孝謙・称徳天皇の道鏡の例もあるし。(著者も対比しています)

推古天皇も寵臣、三輪逆(みわのさかし)と、夫・敏達天皇の死後とはいえいい関係だったような記述があるし。

  

第四章は、「ジェンダー記号としてのヒメを読む

主に、ヒメミコのヒメについて分析していて、律令以前は王、と表記され、ミコと読み、(額田部王、長屋王など)男女の区別がなかった、皇族の御子たちが、律令以後、二世が親王(皇子)、内親王(皇女)。三世以降が王、女王、と表記されるようになったことをふまえ、ヒメミコのヒメはそれまで同じミコだった、女性のミコたちを、区別するためのジェンダー記号だった、としています。 

もっと、古来の、ある印象の、ヒメですが、オトメ、イラツメ、といしても使われる女性としての、メ、という接尾語は、律令以後、政治・軍事への参加から女性を排除する意味でいっせいに付けられるようになった、と。 

著者も、ヒコ(彦)=男性、ヒメ(姫)=女性、の人名タイプが古くからあったことを完全に否定しているわけではないのですが、この男女の使い分けが確立したのは、記紀や風土記が編纂された七~八世紀ではないか、と推定しています。 神話に出てくる神様たちの彦、媛についても慎重に見直す必要がある、としていますから、ちょっとすごいです。

他にも、卑弥呼ではないか、と言われるヤマトトトヒモモソヒメ(漢字変換大変なので省略)のことも出てきますし、日本書紀が卑弥呼に比定している神功皇后も出てきますし、卑弥呼好きの方、必読です。 

長々と書きましたが、今回、私がいちばん読んでよかったのは、彦=男性、という考えを疑う視点において出てきた、「アメノタリシヒコ」についての考察。 

いわゆる聖徳太子が派遣した遣隋使が倭王について「姓は、阿毎(アメ)字(あざな)は、多利思比弧(タリシヒコ)号して、阿輩鶏弥(オオキミ)」「王の妻は、鶏弥(キミ)と号す」と、語ったと隋書に記されている、有名なこの一節。

この一節のおかげで、いわゆる「聖徳太子は天皇だった!」とか「推古天皇は実際に政務をとっていない」とかいわれる要因になっていて、中国の史書もあてにならないな、などともやもやしていたのですが、今回、明確な答えが、この本にありました。

つまり、彦=男性ではない。 ヒコ、は日の御子、の意でヤマトにおける王たちの呼称として古くからあり、男女の区別なく使われた。「王の妻」については、隋は倭王の使者に、称号を訊ねたのであり、王の妻の称号を、遣隋使は答えたのにすぎないと。 これまでの、父系社会である中国視点というのを考えて読み合わせると、一貫した流れがあって、無理がないのが解釈としてよい。 

ひとつの考古資料や文献の一文から歴史的事実のカケラを拾い出そうとするのではなく、時代全体を鳥瞰図のような広い視点で眺め、その時代の価値観を見出し、その価値観によって作られたであろう、考古資料、文献を分析する。 史学の世界では、そういった視点が最近は重要視されているみたいです。 

時代全体をみる、となると扱う年代が長すぎて、素人にはなかなか難しい世界ですが、こういった視点で書いている歴史の本は今までと違って新鮮で面白いです。 何冊か、こういった本を読んでみようと思います。』 

古代の王朝、邪馬台国・出雲王朝・大和王朝説には興味が尽きません。

(記事投稿日:2022/09/19、#573)


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