『小次郎の燕返しの「物干し竿」の正式名称は「備前長船長光」』
―武蔵の野戦剣法・二天一流に対して、道場剣法と言われた小次郎の巌流―
―長い鞘を背負っての決闘は不利なので手持ち刀を抜刀の後、鞘は投げた―
巌流島の決闘で『物干し竿の鞘』を投げながら言った一言、あまりにも、有名なシーンですが『遅いぞ、武蔵、臆したか』それに対して、武蔵は『小次郎、敗れたリ、勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか』といった台詞が、小説やドラマなどでは、おなじみです。
『岩流』は『三尺の白刃』を手にして決闘に挑み、武蔵は『木刃の一撃』でこれを倒したとある。 このときの武蔵の必殺の一撃は『電光猶ほ遅きが如し』と表現されている。 また碑文には『両雄同時に相会し』とあり、武蔵は遅刻していない。
ここで、野次馬的な邪推『佐々木小次郎はサウスポー』であった。 下の絵のように、小次郎は、いつも、映画でも、芝居でも、右肩から30㎝もある『物干し竿』の柄を出して背負っています。
ウエブ情報から引用
当時の日本人の平均的な身長は155cm~158cmと言われていますので、小次郎の身長、五尺七寸(約173㎝)、武蔵は、さらに大きく、六尺(約182㎝)と大変な偉丈夫であった。 剣道と抜刀道の有段者である津本陽氏がこう言っています。
『身長、五尺七寸(約173㎝)の小次郎の使いやすい刀は、身長より三尺(約91㎝)引いた長さが目安で、彼の使いやすい刀の長さは、二尺七寸(約82㎝)になる。 これは、まっすぐ立ち,利き腕で刀を下げ、切っ先が地上すれすれになる程度。 これに対して小次郎の大太刀の名『物干し竿』(刃渡り三尺(約91㎝)、柄一尺の大業物)も、『二天記』の記された江戸時代中期頃に名付けられたが、しかし、いつ誰が命名したのかははっきりしていない』
小次郎の身長では、『物干し竿』刃渡り91㎝、柄30㎝を背中に背負った状態で抜刀は大変で、神業であったろうと思います。 さらに疑問が右肩から柄が出ていますので、まず右手ではストローク不足で、難しいので左手での抜刀『サウスポー・左利き』だったと思います。 今後の課題は、佐々木小次郎の実戦記録探しです。
(記事投稿日:2021/05/30纏め、#339)
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