知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『毛沢東と、周恩来と、始皇帝陵と、兵馬俑と、偉大な強者の歴史』 「始皇帝陵の発掘止めたのは周恩来」 「兵馬俑を遺せたのは始皇帝の宰相の名前と毛沢東の死」

2024-09-14 09:41:24 | 歴史・世界

『毛沢東・周恩来・始皇帝陵と、兵馬俑と、偉大な強者の歴史

『始皇帝陵の発掘止めたのは周恩来』

『兵馬俑を遺せたのは始皇帝の宰相の名前と毛沢東の死』

 

島国日本にも世界三大墳墓の一つ、大山陵古墳(百舌鳥古墳群)がありますが、始皇帝陵と大ピラミッド、それぞれの複合施設・コンプレックスとしての広さの比較をすると、それぞれの特徴のあるスケールは驚異的です。

                             複合施設の

            全長(m) 高さ(m) 体積(万㎥) 面積(K㎡)

大山陵古墳(1700年前)  486    36    140   38

始皇帝陵(2400年前)   350    76    300   55

大ピラミッド(4500年前) 230   146    260    2

 

 

兵馬俑(文化大革命の中、偶然・奇跡的に、現代まで残された)

ウキペデイア情報から引用

今回の表題で、毛沢東について、理解するために、思い出したことは、良く例えられる一言です。 『毛沢東の誤算、毛沢東はなぜ、「私は孔子様にはならない。始皇帝になる。これを思い出しました。 兵馬俑を遺せたのは、兵馬俑の遺跡の中に始皇帝の宰相・呂不韋の記録が発見されたことが最大の理由でしょうか。

 

先日(20210916)NHKBSプレミアム 世界遺産スペシャル!『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』の再放送の中で『20世紀最大の発見と言われる中国の兵馬俑。文化大革命の真っただ中、いかにして破壊を免れたのか?』を興味深く視聴しました。

 

半世紀も昔のことですが、香港に赴任した直後に、中国から香港に避難してきた上海の方から聞いたのですが『始皇帝陵は、中国の技術が、陵を発掘した後で、遺物が陵内地下に収まっていた状態を維持できるようになるまでは、発掘は許可しません』と周恩来首相は言い続けたそうです。

 

秦始皇帝陵

ウキペデイア情報から引用

秦始皇帝陵平面図(陵・緑色とその周囲の墓域)

ウキペデイア情報から引用 

今回の再放送で知ったのですが『兵馬俑は、文化大革命の真っただ中、いかにして破壊を免れたのか?』です。

 

アナザーストーリーズ「兵馬俑は見ていた!~巨大遺跡に翻弄された人々~」

放 送 2019年11月5日(火)午後9時~[BSプレミアム]

 

放送前の予告

中国の古代遺跡「兵馬俑(へいばよう)」を43年前、井戸を掘っていた1人の農民が掘り当てました。 秦の始皇帝の軍隊を忠実に再現したおよそ8千体の兵士像が2千年以上の眠りから覚めたのです。 だが時代は文化大革命の真っ最中。 スローガンは「古い価値を否定せよ」。 名だたる歴史遺産が次々破壊されていました。 数奇な運命をたどる発見者、その中で遺跡を守った人々の驚きの行為とは?20世紀最大の発見、その裏に隠されたアナザーストーリーです!

 

「兵馬俑遺跡」とは?

1974年、西安の東北、臨潼県の農民が井戸を掘っていて偶然見つけた陶器の破片。これが兵馬俑坑発見のきっかけでした。 総面積約1万4260平方メートルの1号坑を皮切りに、2号坑、3号坑が次々に発掘され「20世紀最大の発見」と世界を驚かせました。3つの俑坑の規模は2万平方メートルを超え、総計8,000点にのぼるとみられる陶製の兵馬が、死後の秦始皇帝を守るため地下に配置されていたことがわかったのです。

 

兵馬俑坑の西約1.5キロメートルには秦始皇帝陵があります。 約2200年前、中国統一を果たした秦始皇帝は、その絶大な権力を永遠のものにするため、すぐに陵墓の造営に着手。 70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて完成した陵墓は、『史記』によると地下宮殿のようであったと記されています。 長らく伝説と考えられていたこの記述も、近年の調査で痕跡が確認され、秦始皇帝陵の発掘が待たれています。

 

俑とは古代中国で、殉死者の代わりに埋葬した人形(ひとがた)のこと。 敵国のある東を向き、整然と隊列を組んで並ぶ兵士俑はほぼ等身大。 表情、髪形、衣服のどれひとつとして同じ形のものはなく始皇帝の軍団が広範な民族の混成部隊であったことを窺わせます。 当初は鮮やかに彩色されていた俑。酸化による退色を防ぐため発掘は注意深く行われ、全貌はいまだ歴史の彼方に埋もれたままです。

 

発見された当時、中国は毛沢東が掲げた「文化大革命」の嵐で、「古い価値は否定しろ」という考えから歴史遺産が次々と破壊されていました。そんな中で、この古代遺跡・兵馬俑を守ったのが考古学者・袁仲一でした。万里の長城をはじめ始皇帝に関する遺跡は特別に守られていたことから、この兵馬俑も死後の始皇帝を守るために埋葬されたものであることを突き止めたのです。

 

そして、もう一人、この兵馬俑の価値を世界的に知らしめた人物が、ジャーナリストのオードリー・トッピングでした。 中国政府がこの古代遺跡・兵馬俑についての報道を厳しく規制していましたが、彼女はかなり強引に発掘現場へ取材に行きニューヨーク・タイムズに記事を掲載したのです。さらに、極秘ルートから兵馬俑の写真を入手して雑誌に掲載し、世界中で兵馬俑の価値を高めたのです。その記事には、発見者が誰であるかも掲載されました。その後、1987年には世界遺産登録されました。

 

島国日本にも世界三大墳墓の一つ、大山陵古墳がありますが、それぞれの複合施設・コンプレックスとしての広さの比較は含まれておりませんが、世界三大墳墓(単体の比較)でも、やはり凄いです。

            全長(m)  高さ(m) 体積(万立米)

大山陵古墳(1700年前)  486     36    140

始皇帝陵(2400年前)   350     76    300

大ピラミッド(4500年前) 230    146    260

ウエブ情報から引用

やはり島国の王国と、大陸の王朝・帝国はかなりのスケールの差があります。

(記事投稿日:2021/09/17、最終更新日:2024/09/14、#386)


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