知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 2』 —北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上―

2019-03-23 19:13:58 | 絵画

『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 2』

—北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上―

ウキペデイアから引用(晩年の宮本武蔵を彷彿)

 

(葛飾北斎の有名な作品『神奈川沖裏浪』は、芸術華やかなヨーロッパに、いろいろな影響を与えています。ただ、 冒頭から余談になりますが、自分の故郷の九十九里海岸で見ることができた大きなうねりが起こす『土用波』がこのように見えましたが少し様子が違っていました。 遠浅海岸のかなり砂浜に近いところで、これほどの沖合ではなかったようでした。 

 

北斎の多数の作品とその人生を紹介する『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』は、島根県に寄贈された『永田コレクション』の1,000点の内の多くを東京で見られる最後のチャンスでしたので、行ってきました。 北斎については『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 1』で纏めましたが、今回の『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』で、北斎を知れば知るほど『凄い絵師・画家』でした。

 

先ずは、画号を変える(改号)すること30回、そのウェブ情報です。 

彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用したは「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている[5]。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。

 

なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説や、北斎の自己韜晦(とうかい)癖が影響しているとする説もある。ちなみに、「北斎」の号さえ弟子の鈴木某、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。

 

今回の『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』の中では、葛飾北斎の絵師人生を作風の変遷と、主に用いた画号によって6期に分けていました。 展示替えありで、当日見られたのは、展示予定の約6割でした。

Chapter 1
春朗期(2035歳頃) 勝川派の絵師として活動した、

      展示替えありで展示予定作品66点中の29点 

 

Chapter 2 宗理期(3645歳頃) 勝川派を離れて肉筆画や狂歌絵本の挿絵といった新たな分野に意欲的に

                取り組んだ、

      展示替えありで展示予定作品92点中の43

 

Chapter 3 葛飾北斎期(4650歳頃) 読本の挿絵に傾注した、

                  展示予定作品83点中の50

 

Chapter 4 戴斗期(5160歳頃) 多彩な絵手本を、

                 展示予定作品57点中の29

 

Chapter 5 為一期(6174歳頃) 錦絵の揃物を多く制作した、

                 展示予定作品127点中の61

 

Chapter 6 画狂老人卍期(7590歳頃) 自由な発想と表現による肉筆画に専念した、

                  展示予定作品54点中の29

     合計、展示予定作品479点中の271

 

改めて北斎の作品の多さには驚きます。 この北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上、生涯の作品数は3万点余ともいわれ、毎日1枚ずつ画いても82年かかる計算になります。  今までは、北斎は『小柄・細身の絵師・画家』をイメージしていましたが、『画家でもあった武蔵』を思い出させる、『偉丈夫・怪物』でした。

転居すること93回、これもウェブ情報です。

北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保713年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。

 

最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。

 

確かに、江戸の文化・芸術盛んで、江戸時代から続いている習慣や娯楽が今でもあります。 『潮干狩り』、『土用の鰻』などです。 大湿地帯にも関わらず、急増され、いっきに当時の人口百万都市ロンドンに次ぐ世界で二番目の大都市に急拡大しました。 やはり驚かされるのは、江戸には上水道が整備されていました。 赤坂には、そのため『溜池』と呼ばれる外濠兼用の上水源がありました。 玉川上水系と神田上水系を合計すると総延長は152㎞にも達していた。 当時の、徳川家康とその幕閣、やはり凄かったのです。 現代の保身のために『ハコモノ』など造ってしまう、昨今の『政治屋』とは違います。

 

ながい余談でした。 『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』関連は、ほんとに奥が深いので、この後は、次回の『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 3』に先送りです。      

 

北斎の広範囲の活躍は、

浮世絵(役者絵・美人画・錦絵など浮世絵木版画の最終形態)、

黄表紙(草双紙・絵入り娯楽本)、

洒落本・狂歌本・読み本の挿絵、摺り物の下絵、

北斎漫画(絵手本として発行したスケッチ集)

に及びます。 心技体充実北斎だからできた、江戸時代の絵師・画家はだれもがこのようではなかったと思っています。

 

『富岳百景』初編には自ら『九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん』云々と記している。

 

北斎のこと、若冲と合わせて、今後も調べていきます。

                  (20200323纏め #094)


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