知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『日本の城郭 1(日本の城郭の中で一番人気の安土城・五重七層の天主閣)』ー信長は日本初の天守閣を天主閣と呼び、そこに居住したただ一人の戦国大名ー

2019-01-01 10:12:24 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 1(日本の城郭の中で一番人気の安土城・五重七層の天主閣)』

ー信長は日本初の天守閣を天主閣と呼び、そこに居住したただ一人の戦国大名ー

 

 標高199mの安土山に織田信長が天正4年(1576年)正月に天下布武構想に燃え着工。 本格的な石垣の山城で、且つ高層天守も我が国、城郭史上初めて。  城内の石垣は、観音寺山(標高433m山麓からの陸運)、長命寺山(長命寺川と西の湖の水運)、長光寺山(陸運)等から引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ。

   天正7年(1579年)には竣工。五層七重の絢爛豪華な天守閣に移り住んだ。  廃城は着工から10年後の天正13年(1585年)。 この天守閣だけが、天主閣(課題① この呼称は何故)と呼ばれる。(天守も天主も同義に扱われてもいる場合もあり、清州城も天主の呼称)。

  主跡の中央には礎石がなく、中央部分は地階から4階まで「吹き抜け」説、従来から日本建築史の謎であった、「安土天主」「天主指図」、は天主の平面図と断定されている。 この図面には「天主」とある。  建物の「吹き抜け」は、明治の本格的な西洋建築導入まで、この呼称と構造は、日本史にはない。

  吹き抜け構造(課題② 西洋の明り取りLighting Well、中国の風水、熱田大山の山車の構造の影響か更に。 この大手道だけが、約180m直線(課題③ 何故)写真参照。  大手門、大手道周辺は京の都城の空間を持ち込んだもので、目的は「行幸対応」説。  実現できなかった、計画された2回の行幸の中身は不明。

  信長は、城郭に頼る戦いは、考えてもいなかった。 従って、「行幸対応」の直線で十分であったのか。  本能寺の警護しかり、城郭には頼らない。 行幸御殿の有無の討論は不要が定説。 本丸は、安土山の肩に建てられ礎石上の柱痕から高床構造(課題④ 行幸対応だから高床構造か)であった。 信長は、この時期には伝統的権威の温存と利用は。十分考えていた。 自分が権威になると考え始めていたのか。(課題⑤ 狙いは皇帝か)。 

  信長は、領土の急拡大もあったが、成長と共に居城を変えた奇妙な習癖があった。 信長は、守りに堅固な城郭に頼らないが、高いところの居住好み。

1548年 最初は、父信秀から継いだ、末森城(天守構造なし)

1555年 本家から奪った清州城(天主閣) これが海抜0mにあり、水害恐怖症に

1563年 標高85mの小牧山に中途半端な山城(天守閣) 

1567年 標高329mの稲葉山に岐阜城(天守閣)

1579年 標高199mに安土山に安土城(天主閣)、この後に,信長生前の構想

大阪本願寺後への新城の築城構想(課題⑥ 構想は事実か)

 

信長は、岐阜城の天守閣、安土城の天主閣に居住した稀有の武将(一般的には、天守閣は日常生活の居住には使われていない。 天正3年(1975)暮れには、家督を嫡子、信忠に戦国大名の地位を譲り、自分は天下人になった。

天正10(1582)6月2日「本能寺の変」で自刃。享年49歳。

             (記事投稿日:2019/01/01、#049)          


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