『古代の日本は・日本人は凄い 3(石舞台 後世のこの命名に感心!)』
ー古代に人力で運ぶ、最重量が70-80トン、仮組み立てを石切り場でー
政権争いの結果、政敵に破壊されてもこれだけ残った別名『石舞台』の巨石の方墳墓、大化の新政権は蘇我宗本家の旧政権否定から始まり、飛鳥京の上方部の馬子の巨大墳墓の破壊から開始された。
蘇我馬子墓、『説』、と言われるが三重中京大学のコンピュータ―画像解析で、石室内部の羨道の玄門上部に、馬と子の字の半分が読めた。
大宝律令条文にも、『墳墓には碑文を立てよ』とある。
欽明天皇(571年2月没)の円墳が先で、蘇我馬子(626年5月没)は
後で方墳。 これも馬子墓説の裏付けの一つ。
著名の考古学者曰く、『歴史に確実はないが、定説でいえば、・・・・・』、とあり、これは蘇我馬子の墓が確実に近い、定説と言えそう。
世界の大墳墓は被葬者の名前は明瞭、日本の場合は特有の高温多湿、その他で風化が多い。
石舞台から1km余離れた所に、石舞台の破壊のときに、墓の石室から運び
出されたと言われる『鬼の俎』と『鬼の雪陰』があり、これらの寸法から
石舞台の天井石、77トンと60トンを外せば、取り出せそうだが。
課題① 狭い石室からの取り出し方。 吊りあげか、押し上げか、方法は。
課題② 何故(破壊目的なのに)77トンと60トンの天井石を元に戻したか。。
梅原猛古代学に、法隆寺の中門の真ん中の柱が、怨霊の封じ込めとの説があり、この石舞台の天井石の戻しと、盛り土は蘇我馬子の怨霊封じ込めか。
発掘時の写真を見ると、石舞台の名称に相応しく、空堀に囲まれた方墳で、
古墳時代の前方後円墳から方墳への第一号と言われる。
稀に見る巨大な石室 (奥行き7.7m、幅3.5m、高さ3.5m)を完備したもの。 古墳は石の切り出し現場で仮組み立て後、河川を利用運搬、石舞台は、飛鳥川と冬野川の交叉する地点にある。
課題③ 石室の側面と床の石の切り出しと仮組み立ての場所は何処、
河川での運搬は筏か船か。
課題④ 自然石の天井石、77トンと60トンは何処から、どのように運搬
されたか。
(20181229 纏め #046)
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