『スケールが違う「ナポレオンの功罪」と「ナポレオン帝国の終焉」』
『法整備と奴隷制復活、ワーテルロー・トラファルガー・ロシア遠征の敗戦』
ナポレオン・ボナパルトがあまりに有名であったために、この王朝一族については知らないことが多すぎました。 知れば知るほど、一世から四世までのそれぞれの波乱万丈の生涯は、『凄い』の一語に尽きます。
ボナパルト王朝四代、ナポレオン一世・二世・三世、四世と19世紀フランスに興った王朝。 一時はフランス本国のみならず、一族が周辺諸国の君主にもなった。
ナポレオン一世(ナポレオン・ボナパルト)
ウキペデイア情報から引用
ナポレオン・ボナパルト、(1769/08/15-1821/05/05)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(在位:1804年 – 1815年)となった。
フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した。 大陸軍(グランド・アルメ)と名づけた軍隊を築き上げて、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、流刑先である南大西洋の英領セントヘレナにて没した。
英雄ナポレオン一世は軍人でしたが、クーデタによってフランスを変革し、そして世界中へ侵攻し戦争を仕掛けた人物です。 ナポレオンと言えば、『私の辞書に不可能という文字はない』という文句はとても有名です。 もう少しナポレオン一世の生涯を調べてみました。
コルシカ島の貴族
1769年にコルシカ島で生まれ、彼の生家は貴族。 そして1784年にパリ士官学校に入学。 通常4年はかかる士官学校でしたが、ナポレオンはわずか11か月で卒業した、かなりのエリート。 余談ですが、ナポレオンは数学が得意で、幾何学でナポレオンの定理を発見しています。
ヴァンデミエールの反乱
1795年にパリで王党派の反乱。 これの鎮圧の指揮を取ったのがナポレオン。彼は王党派の暴徒に対してためらいなく葡萄弾と呼ばれる大砲用の砲弾を放ちました。 しかしこの反乱を鎮めたことで、彼の名声と昇進につながることに。
イタリア、エジプトへの遠征
フランス革命後に革命政権を打倒しようと対仏大同盟が結ばれました。 大同盟を解体するため、1796年から97年にかけてイタリアへと遠征し、イタリアとオーストリアに勝利。 1798年からはイギリスとインドの交易を分断する為にエジプトへ。 ナポレオン軍は陸の戦いでは勝利を収めましたが、海上ではネルソン率いる海軍に敗北し、エジプトで孤立することに。 このエジプトへの遠征でナポレオンはロゼッタ・ストーンを発見しました。
ブリュメールのクーデタ
ナポレオンの遠征軍が孤立している中、イギリス、オーストリア、ロシアらが第2回対仏同盟を結ばれた。 ナポレオンは部下をエジプトに置いたまま、パリへ帰還。 そしてクーデタを起こし統領政府の第1統領へ就任しました。 これは事実上の独裁政権の誕生。
銀行設立とナポレオン法典で国内の安定を
アルプスへの遠征でオーストリアを破ったナポレオン。 その後イギリスと和約を結んだことでつかの間の平和が訪れた。 ナポレオンは国内政策で、銀行を設立し税制改革を行い、フランス経済を立て直しに成功します。 またナポレオン法典では、法の前で人は平等であることや私有財産の絶対、政教分離などを示しました。 このナポレオン法典は、ヨーロッパの法律に影響を与えることになりました。
ダヴィッド描く「ナポレオンの戴冠式」
ウキペデイア情報から引用
この絵ではナポレオンの母が描かれていますが、実際には参列していなかったのです。 ナポレオンの弟が出席を許されなかったため、同情して出席しなかった説や、息子が皇帝に相応しくないと思ったからという説も。
ナポレオンの妻たち
戴冠する少し前にナポレオンは、ジョセフィーヌと結婚、彼女は6歳年上の寡婦。 つまり彼女にとっては再婚ですね。 もともと彼女はナポレオンの上司バラスの愛人でした。
ジョセフィーヌを愛していたナポレオンでしたが、ジョセフィーヌとの間では子どもに恵まれませんでした。 そのため1809年に離婚。 しかし次の年に、ハプスブルク家出身のマリ・ルイーズを花嫁として迎えました。完全な政略結婚。 ナポレオンは軍人から成りあがったため、箔をつけるために皇女であったマリと結婚した。
英雄のファッション
軍服姿に白馬。 かの有名な絵はアルプスを越えている際の様子を描いたもので、これは宣伝用に描かれたものでした。 実際には山道に強いロバでアルプスを越えていたのですが、白馬へ変更。
英雄に失望した天才ベートーヴェン
ナポレオンに対して大きな期待を持っていたベートーヴェン。 彼が作った曲に第三交響曲に「英雄」があります。 ベートーヴェンはボナパルトの名をこの曲につけて贈るつもりでした。 しかし皇帝へ就任したニュースを受け、失望。なぜ失望したのかというと、ナポレオンはせっかく人権宣言で人々は平等だと宣言したフランスで、再び新しい王朝の幕開けを図ったから。 結局この曲は「英雄」という名に変更しナポレオンへは贈られませんでした。
皇帝ナポレオン、ヨーロッパへ戦争開始! 攻めるナポレオン
ナポレオンは1805年、イギリスへと侵攻、トラファルガーの戦いで敗北。 再びネルソンに敗れました。 2度も勝利したイギリスでしたが、ネルソンは狙撃され亡くなりました。 しかし同年、アウステルリッツ戦いに勝利すると、神聖ローマ帝国を解体します。
ロシア遠征の失敗
ナポレオンはロシアへの制裁で60万もの兵を率いてロシアへ、しかし大失敗に終わる。 ナポレオンは軍を捨てパリに逃げ帰りました。 そしてロシア遠征の次の年に、各国がフランスを襲います。 1813年に諸国民戦争と言われるライプツィヒの戦いでナポレオンは敗れました。
ナポレオン戦争後の王政復古
ナポレオン戦争を受けて、ウィーン会議は、各国の利害が対立したためなかなか進まず、その状況を「議会は踊る、されど進まず」と 揶揄されてしまう始末。議論を進めて、正統主義を採用し妥協が成立する。正統主義とは、フランス革命よりも前の状態に戻すというもの。 これにより亡命していたルイ18世が即位することに。
ナポレオンの百日天下
ナポレオンはエルバ島を脱出、ナポレオンがパリへ到着する頃には陛下のご到着などと書かれていた。 彼がパリへ着く頃にはルイ18世はとっくに亡命した後でした。
ワーテルローの戦い
1815年にイギリス、オランダ、オーストリアなどの各国は打倒ナポレオンを掲げフランスを攻撃。 そこへプロイセンも参戦し、ついにナポレオンは倒される。 こうしてワーテルローの戦いは集結と同時にナポレオンの百日天下も終わりを迎えました。
ナポレオンの功績
フランス革命の理念がヨーロッパ中に広まる。 フランス革命前では、身分の違いが当たり前で個人の自由はなかった時代。 しかし革命を通して、王政ではなく個人の尊重が叫ばれたことは、その後の19世紀で起こった自由主義やナショナリズム(国民運動)へ繋がっていきます。 やはりナポレオンの功績は大きなことで。
ナポレオン二世(ナポレオン・フランツ)
ウキペデイア情報から引用
ナポレオン・フランツ(1181/03/20-1832/07/22)は、ナポレオン一世の嫡男で、フランス帝国の皇太子、ローマ王。 第一帝政のフランス皇帝(フランス人民の皇帝)。 病弱で21歳で没した。 ニ世の死によりナポレオン一世の直系(男系)は絶えたとされている。 ナポレオン三世はナポレオン一世の甥であり、二世の子ではない。
ナポレオン三世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト)
ウキペデイア情報から引用
シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808/04/20 – 1873/01/09)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848 - 1852)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852- 1870)。 皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれていた。
ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年のフランス革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。 第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。
1853年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。 内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。
外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。 しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。 1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。
現在までフランスは共和政であるため、彼がフランスにおける最後の君主にあたる。
ナポレオン四世(ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト)
ウキペデイア情報から引用
ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(1856/03/16 – 1879/06/01)は、フランス第二帝政時代の皇太子。ボナパルティストからはナポレオン4世(フランス語: Napoléon IV)と呼ばれた。 寡黙な人柄であったという。
普仏戦争初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオン3世は捕虜となった。 1870/09/029-09/02の2日間、父ナポレオン3世に代わって政務を執った(摂政皇太子)。 しかし9月4日にパリで民衆の暴動が起こると、9月6日にイギリスへ亡命した。
イギリスではウーリッジ砲兵学校に入学し、好成績で卒業した。 ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。 イギリスへの恩返しとして1878年に勃発したずーる―戦争に従軍、1879/06/01にズールー族の襲撃を受けて戦死した。 子はなく、ナポレオン3世の直系は絶えた。これを聞いたボナパルティストたちは悲嘆に暮れたという。
(記事投稿日:2021/10/11、最終更新日:2024/09/22、#403)
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