知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『世界の城郭 1-1(難攻不落の堅城コンスタンティノープルを陥落させた最高の作戦)』—ウルバンの大砲と、丘を越える艦隊と、エリートのイエ二チェリ部隊と— 

2022-03-23 05:54:59 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 1-1(難攻不落の堅城コンスタンティノープルを陥落させた最高の作戦)』 

『ウルバンの大砲と、丘を越える艦隊と、エリートのイエ二チェリ部隊と』

 

先ずは、城郭・宮殿の大きさランキングです

1位:フランス・ベルサイユ宮殿、約107平方km、周囲約42km

2位:中国・紫禁城、内城・外城合計、約63平方km、周囲約33km

3位:日本・江戸城、約25平方km、 周囲約18km

4位:トルコ・コンスタンティーノ、 約15平方km、周囲約21km

 

この『コンスタンティノープル』で、気になり続けた文章がこれでした。

『わたしがあなたからほしいものは、ただ一つ。 あの街をください』

ビザンチンの歴史家ドュカスが伝えるオスマントルコの若き皇帝メフメト2世が、(後に粛清してしまう)大宰相カリル・パシャに、父ムラト2世がとった融和共存策をかなぐり捨てて、ビザンティン(東ローマ)帝国首都コンスタンティノープル(=あの街)征服を決行することを伝える台詞です(塩野七生『サイレント・マイノリティ』より)。

 

この皇帝は、コンスタンティノープルを三度攻めてます。 三度目の正直は、次の総合力でした。 

ウエブ情報です。

 

(1)ウルバンの大砲

ウキペデイアから引用

コンスタンティノープル陥落に貢献した巨大砲史上名高い、1453年のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル攻略戦。 この時に絶大な威力を発揮し、ヨーロッパ諸国を震え上がらせたのがハンガリー人ウルバンが設計した巨大砲。

 

・総重量1.6トン、長さは5m、直径は1m

63cmの石の砲弾300㎏)1.6㎞)放つ能力を有しました。

・当時の常識からすると、規格破りのモンスター兵器。

 

ビザンチンの誇る分厚い城壁に次々と穴を開けましたが、一度打つのに3時間近くかかり、また暴発も多発し多くの砲兵を巻き添えにしたそうです。

かなり扱いは大変だったようですが、攻略戦に多大な貢献をしたのも事実で、歴史上の巨大兵器の中でもダントツの活躍をみせました。

 

(2)丘を越える艦隊

ウキペディアから引用

 

❶坂を上る道に敷き詰められた材木には動物の脂をどっぷりと塗る。

 

❷車輪つきのそりのような台が一対用意され、ボスポラス海峡に集まったトルコの船をその上に押し上げる。そして台車と縛り付ける。

 

台車に載せられた船は道の左右に数十頭ずつ分かれた牛によって引かれていく。後からも人の手によって押されていく。白馬にまたがり指示をしているのはメフメット2世。21歳なのにこのおじさん顔は威厳を表すためだろうか。

 

❹この間ビザンティン側の目をそらすために金角湾の鎖のあたりで激しく砲撃を加えた。すべてのビザンチンの船は鎖を守る体制をとっていた。
こうして、見る人々が唖然とする中、メフメット2世は当然のごとく顔色も変えずに采配をふるっていった。

 

ウキペデイアから引用 

丘を上りつめるとあとは下りになる。そうなればわずかに押すだけで滑っていく。そして、これまでラテン人の強固な守りで一隻も侵入できなかった金角湾の奥に、次々と70隻の船がすべり進水していくのであった。
テオドシウスの城壁で守りに付いていたビザンチン側の人々は声もでなかった。浸水した船はすぐに周りを囲み、防御の陣をはり、次にやってくる船を守った。しかし、その必要もないくらい、ビザンチン側はあまりの事実に驚愕し、目の前の事実を信じられず、呆然とするのみであった。


 

(3)イエ二チェリ部隊

14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団で、スプーンをシンボルにしていたことが知られている。常備軍団カプクルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。 トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。 この精鋭部隊は、『三年から数年に一度不定期に実施されるデウシルメとよばれる強制徴用で供給された。 特徴は主にバルカン半島の、トルコ人以外のキリスト教徒の子弟から徴用されたことである。彼らはスルタンの奴隷(カプクル)とされ、スルタンから俸給が支給され、少数精鋭であったのでエリート意識が強く、スルタンの戦争では常に中心』となって戦った

 

コンスタンティノープルの最後

2回の攻撃に負けた、街を守るキリスト教徒は、コンスタンティノ―プルは、イスラム教徒からキリスト教世界を守る最後の砦であり、必死の防戦で、第一回、第二回の攻撃には耐えたが、第三回には、『イエ二チェリ』スルタン直属の精鋭部隊も投入して、突撃に成功した。

 

中世の終りから近世始めに築城された世界の巨大な、城郭・宮殿の大きさ(最大時)の比較をすると、この時代の大筒・大砲の射程距離46kmと命中精度を考慮してか、城郭・宮殿はどんどん大きくなった。 

 

城郭・宮殿の巨大化は、大筒・大砲攻撃に備えると、同時に権威の象徴でもあった。 武田流軍学の、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』とあり、城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができないと、大筒・大砲が発達してない時代でも、このように『人心掌握大事』を言ってます。

 

これとは、真逆で、始末に負えないのが、どこかの集団(イスラムの一部)がやる『人間の盾・ヒューマンシールド』で、これには絶句です。

                 (20170526纏め、20190220改、#495)                   


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