知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『縄文人は・縄文文化は凄かった 2(1万3千年も自然と共存)』 ―つい最近まで小学校の教科書から縄文時代は抹消が多かったー

2020-12-12 20:55:42 | 歴史・日本

   『縄文人は・縄文文化は凄かった 2(1万3千年も自然と共存)』

 『つい最近まで小学校の教科書から縄文時代は抹消が多かった』

 

『縄文は文明(技術的・物質的所産)ではない、文化(芸術的・宗教的所産)である。 縄文は日本列島の風土、場所を舞台にして繰り広げられた文化である。』、國學院大學名誉教授の小林達雄氏は著書『縄文文化が日本人の未来を拓く』の中の『おわりに』に書いておられます。

紀伊国屋書店HPから引用

 

縄文文化を知るために、まずはウエブ情報からですが、『文明』と『文化』を、自分なりに、ハッキリさせておきます。

 

『文明の英語訳』⇒『Civilization

『文明』とは『生活を豊かにするもの。 特に物質的なもの。』 『文明』というのは、文化も含んだ言葉と考えてください。 『文明』=『経済的・物質的文化』と定義することもできるのです。

 

『文化(Culture)』の語源は、英語の『cultivate』だと言われています。 『cultivate』とは『(土を)耕す』という意味です。 つまり、農業をすることが文化の始まりだったということです。 『文化』は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で世代を通じて伝承されていくものを意味します。

 

縄文時代は、約3,000年も昔に、1万年以上も縄文文化が続いています。 自然の節理に逆らわず、秩序ある生存を維持してきたからでしょうか。 もっとすごい記録があります。 余談になりますが、19,000年前に出現した恐竜は、自然の節理に逆らわず、秩序ある生存を維持してきたからでしょう,12,000万年以上、続いていました。 『巨大隕石衝突』が無かったら、現在でも恐竜の時代は続いており、優れた人類とは、共存共栄していたのではないでしょうか。 恐竜が闊歩する島・大陸の隣の別の島・大陸にはエンジン付きの鉄の箱で移動する人類がいる世界があったかもしれません。

 

表題の『縄文人は・縄文文化は凄かった 2(1万3千年も自然と共存)』に戻ります。

 

先ずは、これ『200万年前 縄文打製石器』も縄文と言われていますので、今後の課題にしています。 縄文時代の年代スケールが大きく変わります。

  

 

更に、『3-4万年前 縄文磨製石器』があります。

    

 

4,000~5,000年前 土偶・縄文のビーナス』国宝(縄文時代晩期)』となりますと縄文文化の凄さが分かります。

 

2,800~3,300年前 土偶・縄文のマドンナ』国宝(縄文時代晩期)』

以上から、世界の歴史の中で、日本の縄文文化と縄文人の凄さが解りました。 これからも調べていきます。  (記事投稿日:2020/12/12、#258)

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『天才絵師・博学者「若冲」 1(天才絵師・博学者・努力家・執念の人)』―若冲の絵は、不思議な絵だったので、明治大正時代には人気がなかった― 

2020-12-10 22:57:29 | 絵画

『天才絵師・博学者「若冲」 1(天才絵師・博学者・努力家・執念の人)

 ―若冲の絵は、不思議な絵だったので、明治大正時代には人気がなかった― 

 

若冲居士像 相国寺蔵 

 ウキペデイアから引用

 

『動植綵絵』の内「群鶏図」

ウキペデイアから引用

 

数年前ですが、江戸中期の京絵師・伊藤若冲(天才絵師・博学者・努力家・執念の人)の作品展がありました。 どちらの作品展も作品の入れ替えがありました。 同い年の絵師で俳人の蕪村(江戸俳諧の巨匠で、日本絵画との二刀流)が見られました。

 

❶『生誕300年 同い年の天才絵師、若冲と蕪村』於サントリ-美術館

2015318日(水)~510日(日)

『生誕300年記念、若冲展』於東京都美術館

2016422日(金)~524日(火)

 

江戸時代、生前の若冲は人気と知名度を持っていたが、明治以降は若冲の絵は、一般に忘れられがちな時期もあった。     

 

若冲は、23歳で青果問屋を継ぎ、営みながら、青年期10代から狩野派浮世絵を大岡春卜に学んだ後、南蘋派の鶴亭に影響を受けながら、宋元画1,000点余の模写に励み、それでも双方で原型を超えることができないと限界を見出し、その判断から、実物写生に進み、『写実描写主義』を完成さてゆくことになる、

この写実描写主義が浮世絵に影響を与え、さらにこの浮世絵が西洋の近代絵画に影響を与えたことは、日本人の、日本文化の凄さに驚きました。

 

『若冲の写実描写主義』は中国の近代の絵師の絵画、山水画・水墨画とも、文人が余技として描いた文人画(山水画・水墨画)とも異なる。 中国の昔の絵は、多くが絹や紙のような脆弱な素材に描かれて残っていないので、比較対象が少ない。

 

若冲は、宋元画を1,000点余模写とありました。 この模写といえば、NYメトロポリタンでの、余りに大勢の方々の模写風景には驚いた記憶があります。

模写が、時間を超えて、東西で大事にされています。

 

西洋の近代絵画の、古典主義・新古典主義・印象派・ポスト印象派・ネオ印象派・写実主義・表現主義・フォービズム・キュビズム等、目まぐるしく、又、大きな変遷とは、当然比較しようがない若冲ですが、 若冲は西洋の写実主義が出現する一世紀も前に『写実描写主義』を完成させていました。

 

若冲の絵は、不思議な絵だったので、明治大正時代には人気がなかった。

絵画の歴史は不思議です。 若冲が活躍した時期から、一世紀後には、ヨーロッパで、印象派モネの『印象・日の出』描かれています。 それからの変遷の激しさは、日本・東洋には、なかったものです。

 

若冲は、昭和45年、辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以来、注目を浴びるようになった 平成に入って、その超絶した技巧や、奇抜な構図が再評価され、特にアメリカ人収集家ジョー・プライス氏のコレクションにより飛躍的にその知名度と人気を高めている。

 

プライス氏の『炯眼』の逸話、若いころ、『葡萄図』を見た建築家の友人が『草花の構図や機能の形は、いかに無駄なく必要』という言葉に感銘を受け、この作品を衝動買いしたことがコレクションのスタートであった。

 

若冲の絵の数十年の変遷、狩野派→宋元画→写実描写ですが、特に凄いのは、短期間に『写実描写』まで完成させたことではないでしょうか。 

 

日本人は、唐・天竺から伝わった、文化・芸術を、独特に変化・発展させたのは『日本人の周囲の自然環境とDNA』という人もいます。 若冲だけでなく、日本人の文化・芸術の凄さは、いろいろあります。

 

文学では、世界に冠たる、万葉集、源氏物語、方丈記、平家物語、徒然草等あり、また、ヨーロッパの絵画に影響与えた、浮世絵があります。

 

アメリカのルース・ベネティクト氏、文化人類学者が『菊と刀』の中で、日本人文化の特有なところや、日本人特有の精神構造などを指摘しています。

 

三島由紀夫氏の『文化防衛論』では、自壊する文化を守ろうとしたかったのでしょうか。 ごく最近までは、文化が自壊するなどとは想像もしておりませんでした。

 

中国でのプロレタリア文化大革命の名の下で、寺院や遺跡の破壊、日本では廃仏毀釈のもとで石仏像の破壊、イスラム国の遺跡の破壊等、世界中の有形無形両面で進む破壊はなんとしても、人類の英知でくい止めたいと願っています。

                                                                   (20201210纏め #257

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『日本の城郭 13(織田信長も攻めあぐんだ山城・小谷城)』 ―この小谷城の不思議な縄張りを探る―

2020-12-07 22:33:59 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 13(織田信長も攻めあぐんだ山城・小谷城)』

               『この小谷城の不思議な縄張りを探る』

この小谷城には、戦国の攻城戦よりも、中国の古代王朝時代にあったストーリーにも負けないような、歴史上の波乱万丈の美姫のロマン大絵巻、市姫(織田信長の妹)の物語がありますが、この市姫・お市の方の子孫についてはあまり知られておりません

戦国大名・織田信長の妹で、信長とは13歳離れている。 通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされている。 信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉という。 初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。

子に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子(江の娘、息子)など。徳 川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。また、今上天皇の先祖に当たる人物でもある。

余談、前置きが長くなりました。 表題『日本の城郭 12(織田信長も攻めあぐんだ山城・小谷城)』―この小谷城の不思議な縄張りを探る―に戻ります。

一般に山城は、『独立峰』、『独立した丘』、『尾根の先端』、『尾根のY又はX字交点』、『一本尾根の最高部』等に築城されます。 この小谷城は、一方の尾根に本丸を中心とした城郭を配し、谷あいの城下町を馬蹄形に囲うように、谷の反対側の尾根にも出丸を築城し、城郭・出丸で防御ネットワークとしています。

小谷城防御ネットワークは、大嶽城(左峰)と本城(右峰)が連携して、難攻不落の威を誇っていました。

ウエブ情報『信長苦戦ス! 姉川の合戦と小谷城の謎』の抜粋・引用です

1573年8月、織田信長は浅井長政の居城小谷城(滋賀県長浜市)を攻め、その際、長政が妻(市)と娘の三姉妹(茶々・初・江)を信長に託した話は有名です(『浅井三代記』)。 しかし、信長はその小谷城を攻め落とすのに3年もかかっています。

落城の3年前1570年6月、信長は朝倉義景を討つべく越前に侵攻し、金ヶ崎(敦賀市)を落としますが、そのとき信長の耳に、「長政離反」の一報がもたらされました。 長政は信長の義弟。 そのとき、信長はすぐには信じませんでした。 が結果は、信長は命からがら京へ逃げ帰ることになります(金ヶ崎崩れ)。

信じていたぶん、信長の怒りは激しいものでした。 その年の6月、信長は裏切り者の長政を成敗すべく、大軍を率いて長政の居城小谷を包囲しました。

しかし、織田軍の勢いもそこまで。何しろ、小谷城は峻険な山城。天下に名高い堅城を、そう簡単には攻め落とせません。

旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』の記述をみるかぎり、両連合軍の兵力は、「織田29,000・徳川5,000」(計34,000)に対して、「浅井8,000・朝倉10,000」(計18,000)の兵力差がありました。 しかし、ほぼ3倍の兵力を誇る織田勢は、浅井勢に押しまくられ、『甲陽軍鑑』によると、十五町(約1.6㌔)も後退させられます。 ところが徳川勢の奮戦によって、ようやく逆転勝利を得たといいます。

日本の山城には、次の3種類があります。

古代山城 ;飛鳥時代から奈良時代の畿内から九州北部にかけて築かれた。

中世山城 ;中世・戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。

近世山城 :安土桃山時代後期から江戸初期までに築かれた。

この小谷城は、中世山城、 または、近世山城 に入りそうですが、縄張りを見ると、古代山城にも見えます。 これからの課題になりました

                     (20201207纏め #255 )

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『岩手県普代村の大津波への備えで犠牲者ゼロ、から判ったこと!』ー三段構えの防潮林と、防潮堤、防波堤の工夫に「Yの字」川が津波を分散―

2020-12-05 09:43:50 | 地球・火山・地震・津波

『岩手県普代村の大津波への備えで犠牲者ゼロ、から判ったこと!』

ー三段構えの防潮林と、防潮堤、防波堤の工夫に「Yの字」川が津波を分散―

 

  先日の台風21号の高潮でも、大変な被害がでました。 これから、沿岸部一帯の防潮堤・水門が機能したか、幾多の研究所や委員会が、確認するそうですが、一部のメディアが既に、報道している、A滑走路の一番低いところは海抜1.4ⅿ(瀬戸内海の干満差は1.9ⅿ、これでは低気圧・満潮時?)であったそうです。 台風の高潮でさえこの被害ですから、地震の大津波の高さ30m余では、どうなるのか! また、沈下する海上空港がどうして構築されたかも徹底的に責任追及と対策が必要です。

 

 このような時に、南海トラフ地震大津波予想の報道を必ず思いだします。大津波の高さ30ⅿ余、ビル11階建て相当の大津波へ、コンクリートで備えるにはどうするのかを想像すると、東南海の海岸は、普代村の対大津波対策に恵まれた地形環境と類似している場所は少なく、かなり難しそうです。 

考えられる対策は;

 

①  想定される大津波の高さ30ⅿ余、より高い防波堤・防潮堤で完全にブロックする。 

コスト、景観、用地買収等の困難と、津波の高さ想定が難しい。 日本列島の海岸のかなりの部分を巨大な、高さ30ⅿ余のコンクリート塀で囲むことになる。

 

②  想定される大津波の高さより低い防波堤・防潮堤を、大津波は、これをのり越えてくるが、その後ろの2段目、3段目の防潮堤・緩衝エリア(防潮林や田畑)で、大津波の破壊力を吸収する(岩手県普代村の備え)。

①  と同様の問題があり、南海トラフ地域では緩衝エリアが手当てできるか。

 

③  従来の防波堤・防潮堤は、そのままで、住居を大津波の遡上高(津波の高さの数倍)以上の海抜の台地に移転する。

日本独特の海岸の地形には、高台の移転先の用地を手当てができるか。 又住民の賛同が得られるか。

 

等々、課題が考えられますが、結局、いつ来るか予想し難く、津波の高さも想定し難い大津波に対して『東日本地域でも、南海トラフ地域でも』、結論は、現在のやり方の継続、または、その他、折衷案で進められています。 

 

そんな中で、最も、気になるのは、津波の高さ(遡上高ではなく)30m以上が想定されるのに、静岡浜岡原発の防潮堤は、18ⅿから22ⅿに嵩上げする程度の変更です。 

 

自然災害で恐ろしいのは、火山の破局噴火と地震による大津波です。 地球を氷河期に変える破局噴火(目下の心配は、イエローストーンの噴火)は、手の打ちようがありませんが、これは別として大津波には、どんな備えができるかが、これからの、課題になっています。

 

先ずは、ウエブ情報から『用語』の確認です。

検潮器の測定範囲は、020ⅿ、最近の事例では振り切れ・測定不可があった。 現在では、①検潮所のフロート使用の波高計と、②沿岸GPS海洋ブイがある。

防潮堤は陸上に、防波堤は海中に、構築されたもので、これに防潮林が加わり、大津波の被害を軽減する。 それらの複合ハード面に、更にソフト面対応が必須であることも判りました。 

 

表題の、岩手県普代村の事例と宮城県釜石市の事例を比較してみました。 どちらの事例も、ハードの構築コストを考えると、他に手立てはないのかと、思うズブの素人です。

 

岩手県普代村のコンクリートの普代水門と太田名部防潮堤が大津波から住民を守った例;

 

水門と防潮堤合わせての総工費約36億円、この費用を国と県が負担することを実現させたのは、当時の人口3,000余人の普代村の『信念と粘りの和村村長』であった。 当時、この構築事業には、総工費の面で賛否両論があった。

 

普代村大津波と被害の推移

明治三陸大津波(1896年)津波高さ15ⅿ 犠牲者302人

昭和三陸大津波(1933年)津波高さ13ⅿ 犠牲者137人

平成三陸大津波 (2011年)津波高さ24ⅿ 犠牲者 0人(当時人口3,088人)

 

この大津波対策は、ハード面でも2段、3段構えがあり、水門も防潮堤も津波をのり超えさせ、やり過ごす設計(防潮堤の断面は底辺が広い台形)。

 

①  普代水門、高さ15.5ⅿ(海抜3m)長さ205ⅿ、普代浜海岸から約300ⅿ。

②  太田名部防潮堤、高さ15.5ⅿ(海抜10ⅿ)長さ155m。 水門から600ⅿ。

③  水門と防潮堤の間に防潮林。

④  防潮堤は普代川の本流・支流分岐の山側に構築され、この防潮堤が津波を、本・支流に沿って南北に逃がし、防潮堤へのアタリを弱め、のり超え回避。

⑤  一部の住居は防潮堤の山側の高台に移転を村の行政が薦めた。 

 

さらに、大災害を避けられた地形的背景は;

能代浜は、逆V字状の入江・湾ではなく、普代川沿いの谷で、この谷は住宅地付近で、本流・支流で、Y字状の末広がりでしたので津波の遡上高は増幅されなかった。 さらに、この能代浜は、北山崎海岸北端の黒崎半島のカゲに入っている等、 地理・地形もプラスでした。

津波後の普代水門(ほとんど損傷なし)の後ろの防潮林の被災状況

 防潮堤が集落を守った。

  反面釜石湾の防波堤総工費約1,200億円+復旧費用約500億円=約1,700億円、最大水深63mの海底からケーソン工法により立ち上げたもので、2010年には『世界最大水深の防波堤(Deepest breakwater)』としてギネスブックによる世界記録の、対大津波対策の効果測定は難しかったようですが、効果は、波高で4割減、津波を約6分遅らせたと言われている。

 釜石湾水深63ⅿに構築された防波堤大津波に破壊された世界最大の防波堤

 釜石市大津波と被害の推移

明治三陸大津波(1896年) 津波高さ8ⅿ  犠牲者6,724人

昭和三陸大津波(1933年) 津波高さ10ⅿ 犠牲者  403人

 (世界一深度の釜石湾防波堤完成:2009年3月)

平成三陸大津波 (2011年) 津波高さ9ⅿ 犠牲者1,046 人

 

津波は、風波の波長数ⅿから数百ⅿとは全く異なり、波長数キロⅿから数百キロmですので、この深さ最大63ⅿの湾の防波堤にかかった圧力は想像を超えます。

 

東日本大震災から7年余それから、ずっと気になっていました。 大津波は、ハード面だけで防げるのか。 大津波は、がっちりブロックするよりも、英国テムズ川のテムズ・バリアーのような可動式水門も一方策かもしれません。

 

普代村の事例は、下記ウエブ情報からの抜粋でよく判ります。

2011年3月11日東日本大震災、津波が太平洋沿岸の町・村を襲いました。
しかし、普代村は住宅の浸水がゼロ、一人の死者も出しませんでした。

村を守ったのは、高さ15.5mに及ぶ防潮堤に水門・・・奇跡ともいわれた人命救助の陰には一人の男の執念がありました。 普代村元村長・和村幸得、40年もの歳月をかけて普代村の防災対策の実現に心血を注いだ人物です。

村を津波から守ったのは、浜から300mにある高さ15.5mの普代水門(海抜3m)です。 そして、同じく15.5mを誇る太田名部防潮堤(海抜10m)です。
東日本大震災当時、水門を襲った波の高さはおよそ23.6メートル・・・しかし、防潮堤によってその勢いは弱まり、防潮林によって完全に止まりました。
一方、太田名部防潮堤は、漁港に張り巡らされた防波堤で波の力を弱め、防潮堤によって家を守りました。 村人たちの命だけでなく、家、財産を守った防潮堤と水門・・・その施設を発案し、完成に導いたのが和村幸得です。

 

どこか国の、元女性大臣のスーパー堤防への有名な発言が出たほどに、自分が担当したらどう質疑応答ができるか考えてしまいます。大津波対策も、身近で、最も難しい課題です。

(20180908纏め 20201205追補 #028)

 

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『小次郎の物干竿の燕返し(虎切り)は何故、武蔵の木刀に敗れた?』ー相手が一人の場合は、木刀の威力を知り尽くした武芸者であったことが勝因ー

2020-12-04 22:45:45 | 歴史・日本

『小次郎の物干竿の燕返し(虎切り)は何故、武蔵の木刀に敗れた?』

ー相手が一人の場合は、木刀の威力を知り尽くした武芸者であったことが勝因ー

   先ずは、キャプションについての、沢山の小説とウェブ情報から、想像してみた結論です。 

武蔵は、①膂力絶大にして、②屋内外の実戦経験も豊富で、③木刀の威力を知り尽くした稀有の武芸者であったことが勝因と推察しました。

 

 最初から大脱線の余談で失礼します。 『勝負は時の運』とよく言われます。 サッカーには、ズブ素人の自分は、団体球技のサッカーならではの、『運・ツキ・流れ・番狂わせ等の要素』があるように思えてなりません。 特にサッカーは、攻撃には『手』が使えませんので余計に。 また、リードしてからのボール回しは、知っていましたが、リードされてからのボール回しは初めてでした。 自分には『目から鱗』でした。  個人戦の格闘技では、これら『運・ツキ・流れ・番狂わせ等の要素』が少しは減少しそうです。 やはり個人の戦いは、心技体で臨むサムライの決闘・一騎打ちが、日本人の心に残るのではないでしょうか。 知り得る情報から、巌流島の決闘の背景を勝手に推察してしまいます。

 

 個人対個人の剣士の決闘・一騎打ちは、特に巌流島の決闘には、興味が尽きません(一騎打ちではあったが、小次郎に止めを刺したのは武蔵の弟子たちとの説もあるが)。 この二人の若さと円熟度を比較したくとも、武蔵の生年は1584年と判明しているが、小次郎の生年が天正年間(1573-1593)又は、永禄年間(1558-1570)との記録だけで不詳。 巌流島の決闘は1612年ですから武蔵28歳、小次郎20歳前後、又は、50歳前後なり、若さ同士の闘いであったか、若さvs円熟の闘いであったのかは不明。 小次郎は、中条流富田勢源一門であったことから、想像すると巌流島の決闘当時は、小次郎は50歳前後であった可能性がある。

 

 当時の日本人の平均的な身長は155cm~158cmと言われていますので、当時としては大きい二人であったが、小次郎の身長、五尺七寸(約173㎝)、武蔵は、さらに大きく、六尺(約182㎝)と大変な偉丈夫であった。

 

 昔の刀は、ほとんどは重心が鍔に近く、日本刀は基本的には『引き切りであって押切ではない』、一方、後世の刀は、その重さ(重心)が剣先から3寸(約10cm)下から刀身の中央辺りにあると言われており、『刀の重さで切る』。

 

 決闘に重大な影響を持つ、体力には『持久力、筋力(瞬発力)、敏捷性(平衡性、バランス感覚)、柔軟性等』の要素がありますが、サムライのことから思い浮かぶのは『膂力(一般的には腕力)』です。 ウェブ情報では『膂力とは、筋肉の力、又は腕力』とあります。

 

 剣豪小説では、ブームの火付け役の津本陽氏は佐々木小次郎と、彼のツバメ返しを以下のように書いています。 身長、五尺七寸(約173㎝)の小次郎の使いやすい刀は、身長より三尺(約91㎝)引いた長さが目安で、彼の使いやすい刀の長さは、二尺七寸(約82㎝)になる。 これは、まっすぐ立ち,利き腕で刀を下げ、切っ先が地上すれすれになる程度。 

 

 これに対して小次郎の大太刀の名『物干し竿』(刃渡り三尺(約91㎝)、柄一尺の大業物)も、『二天記』の記された江戸時代中期頃に名付けられたが、しかし、いつ誰が命名したのかははっきりしていない。 江戸時代は初代将軍・徳川家康が刀の長さを2尺8寸(約87.5cm)以内にするようにお触れを出したため、人々は小次郎の所有していた刀の長さが珍しかった。

 

 さて、燕返しですが、小次郎の時代には、攻撃は『一段打ち』という常識があり、この常識を打ち破って『二段・三段打ち』攻撃を編み出したことが画期的であった。 一段打ちによる攻撃が常識であったいうのが重要で、対戦相手の発想は第一段の上から下への攻撃が終われば、小次郎の攻撃が終わったと思い隙が生まれる。 一方、小次郎は、予定通りの二段打ち攻撃ですから、これが成功する。という無敵の必殺技『燕返し』の成り立ちです(この部分は別のブログで紹介済みを引用)

 

 武蔵は大刀を、脇差のように振るう腕力、握力を備えていたので、自分と互角に戦う相手には一刀で立ち会ったが、多勢と戦う時は、木刀ではなく二刀を使った。 これは敵の一人の小指を落すだけで相手集団に対しての効果は抜群であったと。 一刀は二刀よりも正確迅速に振れるから。 小次郎との決闘では、使い慣れた枇杷の木刀を用いた。 切っ先に鉛を仕込み、銅輪をはめた500匁(約1.9kg)の、木刀四尺一寸六分(約158㎝)は、小次郎の物干竿四尺(約152cm)400匁(約1.5㎏)に対して、膂力が上回る武蔵は、砂浜での戦いで、少し有利だったのではないか。 さらに、真剣の刃は横風の影響を受けると言われ、木刀は殆どそれがない。 吉岡清十郎との、ほぼ一騎打ちの決闘も木刀での勝利であった。

 

 命懸けの他流試合の経験豊富な武蔵は、太刀さばきが稲妻のように早く、対して小次郎は、道場での試合経験が多かったので、太刀さばきに差があったのでは。 道場での試合と形稽古が多かった小次郎に対して、凹凸のあり、草木が茂り、小石・砂利のある、野外での決闘立会経験が多かったのは武蔵でした。

 

 関ケ原の戦いでは、武蔵は福島勢、井伊勢と戦い、騎馬武者を襲い、馬上から引きずり落とし五個の兜首を上げたとある。 混戦になると馬上の鎧武者が脆いのは、その装備の重さにあり、引きずり落とされたら、一巻の終わりです。

 

 また、余談です。騎馬武者の重装備は、森蘭丸の甲冑(刀鎗含まず)の記録が参考になります。

 

兜:1,900g、面類:300g、袖:300g、籠手:1,100g、胴:4,700g、草摺:4,700g、佩楯:600g、脛当:300g、軍配:30g  合計、約14㎏(プラス、刀鎗の重さ4-6㎏)です

 

 これから解るのは、武田の騎馬軍団は、鉄砲だけでなく、織田軍の戦術に敗北したようです。 欧州中世の騎士(馬上の)軍に圧倒的勝利を収めたモンゴル騎兵軍が、その証明です。

 

 巌流島の決闘は、あれほどの闘いであったのですが、記録には詳細が残っていないので、瀕死の重傷を負った小次郎を武蔵の弟子たちが、止めを刺したのが真相のようですが、それ故、記録としては残されなかったと推察しています。                             

                 (20180701纏め 20201204追補 #024)

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