原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「法学概論」 小講座 Ⅶ

2020年05月24日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「法学概論」の講義ノートより“憲法の基本原理”のページを撮影したもの。)



 どうやら私が住む東京都でも、明日25日に「コロナ緊急事態宣言」が解除される方向のようだ。

 7シリーズ続いたこの「法学概論」小講座も、そろそろそれに合わせてお開きにしようか。
 と思ったが、このS先生の講義には付録で第10章「近代市民法」があるため、それを公開した後に終了しよう。



 それでは、S先生の「法学概論」講義ノートより、「憲法の基本原理」及び「犯罪と刑罰」に関する我がノートのページを以下に掲載させていただこう。


      


      


      


      



 授業最終場面に際し、S先生は「憲法」を語って下さった。

 「憲法の改正とは、“改正”ではなく“革命”」

 素晴らしい“お言葉”である。
 「憲法改正」を口にする人間は、その覚悟を持って発言して欲しいものだ!

 何らの法的知識もこの国に対する愛情も無くして、安易に「憲法改正」を高らかに掲げる人間が現在国家首相に就任しているが…  
 「憲法の基本原理とは、“恒久平和主義”」。
 これを肝に銘じつつ、少しは法律の基本そして「憲法」を学んだ上で慎重の上に慎重を重ねて問題提起をして欲しく思う。


 次なる「犯罪と刑罰」の授業では、S先生は「死刑存廃問題」に関する持論をじっくりと述べて下さった。
 この授業の時に、「私の授業は決して録音しないで下さい。それが外部に漏れると私は監獄行きになります。」と今一度おっしゃった。
 まさに微妙な法的問題である。 
 S先生の発言内容は割愛するが、一人の人間としてじっくりと考えねばならない課題であることを痛切に感じさせて下さった内容で、今尚鮮明に記憶している授業だ。


 ノート欄外に“期末試験”に関する内容が書かれている。
 それによれば、「テキスト」「自筆ノート」「六法」が試験中に参照可のようだ。
 大学の特に「社会科学」の試験は、この形式を取る授業が多かったように記憶している。

 たった今書棚を確認すると、S先生の著書が保存されていた。
 パラパラめくってみると多少の線引きはあるものの比較的綺麗だということは、授業中にはほとんど使用しなかったと思われる。
 とにかくS先生の授業は博学であられる先生の口頭弁論方式だった。

 以前も書いたが、私の場合口述授業の「自筆ノート」を取るのに長けていて、自分で言うのも何だがノート内容がほぼ完璧だ。
 この我がノートが若き学生達に狙われたものだ。  試験前になると、「ノートをコピーさせて頂けませんか?」と学生が押し寄せた。
 中には、「どうやったらノートが取れるのか教えて欲しい」と尋ねる学生もいた。 高校までの授業で、教員の板書をノートに写し書きすることに慣れ切ってしまっているのだろう。 
 (これ、まさに高校までの授業のやり方の失策と私は捉え、我が高校教師時代にその改革、すなわち“生徒に板書をさせない授業”を私なりに試行錯誤したりもした。)
 「講義を聴きながら、少なくとも自分が興味を持った箇所からノートをとる練習をしたらどうか」とか、「綺麗で無くてよいから、とにかく講義内容を聞きながら書き取る事に集中すれば…」 などとアドバイスしたものだ。


 悲しいことに、大学の授業に於いて今尚教官が「板書」をして学生にそれをノートに写させている大学もあると聞く…
 そんな大学にて学生はどうやって学習では無く 「学問」 に触れることが叶うのか?? 

 原左都子として嫌みったらしい事は承知だが、摩訶不思議な感覚に陥る…😱 

左都子の「法学概論」 小講座 Ⅵ

2020年05月22日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、、我が2度目の大学にて受講した「法学概論」授業の講義ノートより転載したもの。)


 今回の「法学概論」のテーマは「法の解釈」だ。
 この「法の解釈」は法学の中でも私が好きな分野だった。


 故に、我がエッセイ集「左都子の市民講座」カテゴリーに於いて開設初期に取り上げている。
 その一部を以下に引用しよう。

 法律は解釈論が面白い。
 元々理論派の私は法解釈の“理屈っぽさ”にはまってしまい、学業の中途から経営法学へ方向転換したといういきさつがある。
 
 ①法の解釈とは?
   法文の意味や内容を明らかにすること。
   具体的事実に対し、法を適用するときにその解釈が必要となる。
 ②法の解釈の意義
  ○抽象的表現の具体化、明確化
    例:民法1条の3「私権ノ享有ハ出生ニ始マル」
       では、「出生」とはいつなのか? 学説は分かれる。
        ・陣痛開始説
        ・一部露出説 ← 刑法の通説
        ・全部露出説 ← 民法の通説
        ・独立呼吸説 
     ※ 刑法においては人名尊重の観点から「出生」を早期に解釈するの
       が通説の立場
       胎児であるか、人であるかにより適用される条文が異なり、
       刑罰の重さが異なってくる。→
        人を殺した場合は殺人罪
        胎児を人工的に流産させた場合は堕胎罪

  ○法律の非流動性と社会現象の流動性とのズレを埋める
    法 … もともと最高に強力な社会規範
         この最高に強力な社会規範が流動的であったならば、人々は
         何を基準に生きてよいのかその方向性を見失ってしまう。
         そこで法とはそもそも非流動的な存在である。
        解釈により非流動的な法と流動的な社会現象とのズレを埋める。

    (途中大幅略)

  ★利益衡量論 (新しい解釈法、帰納的方法)
    結論が先にあり、それに基づき法律構成をする、という考え方
    論理的解釈よりも、実務家の勘による。
     (実務家はその実務経験により、極端に言うと、どちらが善でどちらが
       悪かが直感で判断できることもあるらしい。その判断力でとりあえず
      結論を先に導いておいて、後から法律構成をするという方法。)
      
     欠点:制定法規範を無視する恐れがある。
             ↓
        法の秩序が危険にさらされる恐れがある。
   法適用の際のひとつの手段としてこの方法を用いるならば妥当性はある。

    (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)


 以上の引用は、S先生の「法学概論」よりの引用ではなく、おそらく我が修士論文指導教授だったY先生の授業より引用した記憶がある。
 (上記写真を見ると、S先生も同様の講義をされているようだが。)

 
 「法の解釈」に於ける最重要ポイントは、上記の “法律の非流動性と社会現象の流動性とのズレを埋める” 事にあると、私は現在でも解釈している。

 参考だが、我が修士論文はまさにこの「法の解釈」論を主柱としたものである。
 論文テーマに関して、如何なる法の解釈論を採用するかの「学説研究」を徹底的に実施した。
 修士論文審査に当たりその分析の緻密さに対し“高評価にて合格”したものの、あまりにも理屈にこだわり過ぎると“理論遊び”になる点を指摘された。 
 (それでも、そのご指摘は私にとっては我が目指すべく学問の方向であり、十分に納得の結果だった。)



 S先生の「法学概論」に戻ろう。


      


      


      


      


 さすがに博学であられるS先生、この授業でも医学に関して述べられている。
 「脳死を個体死と認めるか?」  脳幹を損傷した場合も人工呼吸装置により一週間位は生きられる。 どの時期をもって脳死と判定するかは、医師にとっても困難な現状。


 我が考察だが、この講義から30年の年月が経過した今、ニュース報道に於いて「心肺停止状態」の表現が多用されているように感じる。
 要するにこの「心肺停止」の用語など、「死」をいつと判定するかに関する上記“法的概念”を念頭に置いて慎重に表現している結果と推測・実感させられる。 
 
 我が国のごとく制定法(成文法)国家に於ける「法の解釈」とは、人が生きる社会全般に於いて大きな使命を果たすべく存在である、ということだろう。

左都子の「法学概論」 小講座 Ⅴ

2020年05月19日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学時代に受講した「法学概論」の授業より、「不文法」に関する講義ノート箇所を撮影したもの。)


 さすがに「法学概論」“らしい”授業が続いているが、この頃既に11月だ。

 大学とは年間スケジュールが「前期」と「後期」に二分されているのが通常だが、その間の夏期休暇や終盤の春期休暇が長いため、実際の授業期間は約7ヶ月程であっただろうか。
 勤労学生の私の場合、それら長期休暇中は医学専門職人材派遣で集中的に稼いだものだ。
 故に長期休暇と言えども他の大学生のように長期旅行や短期留学に出かける訳にはいかず、いつも通りの多忙な日々を送っていた。
 大変な部分もあったが、時間に追われることの苦しみと充実感・達成感を同時に堪能することが叶った、実に得るものが多大な充実した毎日であった。 (それ故に私はその頃を、我が煌めくばかりの “華の独身時代” と表現している。)



 さて、「法学概論」の講義に戻ろう。
 今回は「不文法」の講義だが、いつものように我が講義ノートより転載した。

         


         
          (時間の経過と共に、写真が縦になると信じます…)


         


 「不文法」、まさに「法学概論」以外では語られない項目であろう。

 「成文法」が採用されている我が国の場合、「不文法」に関しては「法学概論」を受講しない限り、これに触れることはないことだろう。

 「不文法」には大きく分けて「慣習法」と「判例法」が存在するが、そのうち「慣習法」とは“慣習が法まで高められたもの”とのS先生の講義だ。
 更に、「行為規範(例として、“民法90条 公序良俗”要するに、世間の人々の倫理観のことだが。)」 と「裁判規範」の両者を備えるに至ると、「慣習法」となる。 とのS先生の講義内容である。

 これに対し「判例法」に関してだが、特に「英米法(近代ゲルマン法系)の国では、判決が判例法という法規範になる。(これを“判例拘束性の理論”という。)
 ただ、具体的妥当性に欠けるものについては、“判例拘束性の理論”に従わなくてもよい、との声明をイギリス貴族院内の最高裁判所が出した歴史があるようだ。

 我が余談だが、「判例法国家」である米国の弁護士が裁判にて闘う場合、膨大な判例集を持参して法廷に出向かねばならない、との話を聞いたことがある。
 ただ、おそらくITが進化した今の時代に於いては、パソコン一つ持参すれば済むのかも? と想像したりもする??

 この「判例法」の授業内で、S先生は「生体肝移植」や「婚姻予約不履行に関する事例」を持ち出して授業を進めてくれたようだ。
 
 このうち、「生体肝移植」の一部を記載すると。
 “The Doctrine of Informed Consent" (情報を患者に与えて、患者の同意を得なければばらない、という法理)があるにはあるが。
 これを実行したからと言ってあらゆる情報を患者に与えたとは言えず、“出血死”や“移植拒絶反応”等の医療事故が発生する事例もあり、医療側の損害賠償責任を問われることもなきにしもあらず…
 との、我がノート記載だ。

 このノートを記載したのは、今から30年程前の事だが。
 今となっては「Informed Consent」概念は我が国の医療界に於いても常識的だが、その時代から既に一般的だったのかどうかの記憶が定かで無い…
 やはりS先生とは、ご自身の専門外分野に於いても博学な方だったということだろう。 😊 

左都子の「法学概論」 小講座 Ⅳ

2020年05月15日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「法学概論」の1ページ。)



      


      



      


 今回紹介したのは、「裁判と法源」がテーマのようだ。

 これで思い出したのだが、何故私が大学4年次にもなって「法学概論」を受講したのかと言うと、大学院受験を目指していたことも大きな理由だった事を思い出した。
 出身大学と一橋大学法学研究科、そして東大法学研究科の大学院受験を目指していた。
 そのうち、東大大学院は「民事訴訟法」も受験科目だった。 残念ながら、我が大学ではこの年には「民事訴訟法」が開講されなかったため、その代替として「法学概論」を受講した記憶がある。
 結局はやはり「民事訴訟法」の学習が不十分だったため、東大には願書を提出したものの受験は断念した。  後で聞いた情報だが、東大大学院は定員が多いため、定員が少ない一橋大学よりも合格可能性が高く“受け得”だったかもしれない、との巷の噂だった。
 結果として我が大学の大学院へ進学の形となったが、むしろ既に大学でお世話になっている教授氏(後に“文化勲章秋の叙勲”をご受賞されたが)に引き続き教授いただいたことが、大正解だったと言えるだろう。 何分大学院とは教授との関係が濃厚だ。 これまでの師弟関係の積み重ねが多いに活きて、充実した学問生活を送れたものだ。


 さて、話題をS先生の「法学概論」に戻そう。

 それにしても、S先生の講義は実に面白い! 今読み直してみても、話題が豊富で引き込まれるものがある。
 
 「法を知らないからその法の適用を受ける事はない、ということはない。」 
 おっしゃる通りだが、これを授業中に述べる先生も珍しいだろう。

 「民法239条 無主物先占  所有権放棄したものを拾ったような場合 “三方一両損”」 
 この“三方一両損”に関して説明すると、落語や講談の用語のようだが。
 左官金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎はいったん落とした以上、自分のものではないと受け取らない。 大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、三方一両損二して解決する、との話らしい。
 S先生、落語や講談にもご趣味があられたのだなあ。

 「くがたち」って、何だ?
 “盟神探湯”と書くようだが。
 古代日本で行われていた神明裁判のこと、らしい。 
 まったくもって、S先生は博学であられるなあ。 授業が面白い訳だ。

 別ページに移ると。
 
 裁判官は判決書を書くのを嫌がるらしい。 何故ならば、下手な判決書を書くと学者等から批判されるから、とのことだ。
 そうおっしゃるS先生も、裁判官ご批判経験がおありでは??? 😳 

 更にS先生は授業中に「映画 アンタッチャブル」の紹介をして下さっているのだけど、それがどうしたって??
 
 と言うわけで、ウィキペディアより一部を以下に引用しよう。

 『アンタッチャブル』(The Untouchables)は、1987年のアメリカ映画。 禁酒法時代のアメリカ・シカゴを舞台に、正義のためにギャングのボスであるアル・カポネを逮捕しようとするアメリカ合衆国財務省捜査官たちのチーム「アンタッチャブル」の戦いの日々を描いた実録映画。 捜査チームの主任捜査官だったエリオット・ネス の自伝を基にしている。

 なるほど。 実録による“裁判映画”って訳ね。
 未だ見ていないが、今度機会があれば見ますね。

左都子の「法学概論」 小講座 Ⅲ

2020年05月13日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学「法学概論」講義ノートよりその一部を引用したもの。)


 引き続き、「法の体系」に関する講義ノートより引用しよう。

     
      


      


      


 大学を卒業されている方々はご存じだろうが、大学とはほとんどの教官が黒板に板書しない。 (重要用語に関しては板書する場合が多いが。)
 教官の口頭での講義を聴き取って、自分のノートをとるのが常識だ。

 最初の頃はノートに書き殴ったメモ書きを改めて清書し直したものだが、私の場合は何分勤労学生につきその時間が確保しにくかった。  そのためメモ書きそのまま状態の“書き殴り”にて失礼しております。 (誤字脱字を頻発しております点もお詫びします。)


 この「法学概論」のS先生の授業は本気で面白かった。
 何せ、ご自身の法学に於ける主義主張を明確にお持ちの方だ。 それをそのまま口頭弁論して下さるため、この私など毎時間緊張感を持ってのめり込んだものだ。


 冒頭写真の内容にも、S先生の主義主張がにじみ出ている。
 再引用するならば、「憲法の条文はあくまでもプログラム 政治をする目安でしかなく、国民はそれが目安とされているかを監視せねばならない。 これ自体からは何ら具体的な権利義務は発生しない。 これを具体化するのは具体的法規範であるが、実際にはこれがあまりない。」


 上記一番上の写真内 「社会法(公私総合法)」内にも面白い記述がある。
 「本来は私法の範囲にあったが、資本主義の発達により“富の偏在”“貧富の格差の出現”などにより「自由権」のみでは駄目になり、社会権が登場した。 自由権のみでは単なる“貧乏の自由”に成る恐れもあり、基本的人権を保障したことにはならない。 そのため、「社会法」が出来上がった。」 (以下略。)

 まったくS先生がおっしゃる通りであろう。
 この講義が成された後、30余年の年月が経過しているが。
 まさにこの世は単に「貧乏の自由」が大手を振って蔓延っている世界である気もする。
 “新型コロナウィルス禍”により、今現在「貧乏の自由」を迫られた世界人民があえいでいる、といっても過言でないだろう。