◎余ハ林子平ノ為人ヲ慕フ(伊藤博文)
昨年の暮に、伊勢齋助編次『林子平先生伝』(龍雲院、一九二七)という本を入手した。林子平〈ハヤシ・シヘイ〉は、「寛政の三奇人」の一人として知られる江戸後期の思想家である(一七三八~一七九三)。古書価三〇〇円。そのまま、ツン読状態になっていたが、数日前、国立国会図書館のデータに当たってみると、同館は、これと同じ本を架蔵していないようだった。
ただし同館には、齋藤竹堂著『林子平先生伝』(伊勢安書店、一八九二)という本が架蔵されていた。この本は、デジタルコレクションによって、自宅でも閲覧が可能である。閲覧してみると、本文は八ページしかない。一方、伊勢齋助編『林子平先生伝』のほうは、本文五〇ページである。
そこで両者の関係であるが、齋藤竹堂著『林子平先生伝』の発行所は、仙台市国分町の「伊勢安書店」であり、伊勢齋助編『林子平先生伝』の発行所は、仙台市伊勢堂下の「龍雲院」、および同市国分町の「伊勢安薬草園」となっている。伊勢安書店と伊勢安薬草園とは、おそらく、ごく近い関係にある。いずれにしても、伊勢齋助編のほうは、齋藤竹堂著のほうの増補版である、と理解してよいだろう。なお、仙台市の龍雲院〈リュウウンイン〉は、曹洞宗の寺院で、林子平の墓があることで知られている。
本文八ページの齋藤竹堂著『林子平先生伝』の内容だが、一~四ページに、「仙台 齋藤馨子徳著」の「林子平先生之伝」(漢文)が載っている。齋藤竹堂〈チクドウ〉は江戸後期の儒者(一八一五~一八五二)。「竹堂」は号、「馨〈カオル〉」は諱〈イミナ〉、「子徳」は字〈アザナ〉である。四~八ページには、「大槻文彦先生選」の「林子平先生年譜」が載っている。大槻文彦〈オオツキ・フミヒコ〉は国語学者で、日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として知られている(一八四七~一八二八)。
伊勢齋助編『林子平先生伝』は、冒頭の一~五ページに、「林子平先生年譜 大槻文彦先生撰」があり、そのあとの六~八ページに、「齋藤維馨撰」の「林子平伝」が置かれている。「維馨〈イケイ〉」もまた、齋藤竹堂の諱である。九ページ以下に、秋鹿見橘〈アキシカ・ケンキツ〉筆「教育家として林子平先生を論す」、および、河合文応・伊勢齋助共編「林子平小伝」が収められている。
今回、齋藤竹堂著の『林子平先生伝』と、伊勢齋助編の『林子平先生伝』を比較していて、興味深いことに気づいた。後者の「林子平伝」の最後に、伊藤博文が林子平を論じた、次のような漢文が引用されていたのである。【この話、続く】
明治十二年〔一八七九〕己卯十一月。余〔伊藤博文〕奉命巡視奥羽。過仙台。訪林子平墓。墓在荒径野草之間。石麤〈ソ〉而小。僅刻其姓名。字細苔蝕。殆不可弁。嗚呼天明寬政之際。天下無事恬熙〈テンキ〉。不復知海警為何事。独子平懐嵬偉〈カイイ〉之資。察海外形勢。深究攻守之策。著海国兵談三国通覧諸書。其意在欲警醒天下耳目。以謀綢繆〈チュウビュウ〉於未雨。而廟堂不察。斥為狂妄。禁錮終身。不得展其抱負。厥〈ソノ〉後時事一変。世之言海防紛々而起。要皆不能出乎子平之範囲。此所謂先天下憂而憂者。豈得不謂豪傑之士哉。顧距其死未百年。而其墓既荒。可深慨也。余慕子平之為人〈ヒトトナリ〉。惜其湮没〈インボツ〉。於是更樹貞石。勒〔石に刻む〕以齋藤維馨所撰之伝。欲使其卓行偉節〔高い節操〕表著于後世。亦発潜闡幽〈センユウ〉之意也。参議兼内務卿正四位勲一等伊藤博文記 広群鶴鐫