礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

父は合格発表の四日前に斃れた

2017-02-07 04:18:57 | コラムと名言

◎父は合格発表の四日前に斃れた

 森本清吾著『独学者の行くべき道』(文修堂、一九四一)の紹介を続ける。
 本日は、同書の付録「文検受験記」の中から、「T. K. 子」さんという女性の文検受験記を紹介してみたい。
 
  文 検 受 験 記(5)   T. K. 子

  動  機
 小学校時代先生から算術がよく出来る。頭がいいなんて云はれたことが心の底に自信となつてゐたこと。
 女学校時代満点で通した学科は数学だつた事。
 父母が裁縫や家事を勉強するより数学を勉強することに賛意を表したこと。
 父が事業に失敗し経済上破綻を来し、為に上級学校志望を余儀なく捨て、小学校に教鞭を受ける〔ママ〕事になつたが、私の向上心は満足してくれなかつた。
 一つは趣味として一つは学究慾満足の為に数学を勉強することに決心した。
  学 歴 経 歴
 大正十三年〔一九二四〕三月 盛岡高等女学校卒業
 大正十四年〔一九二五〕三月 同補習科修了
 大正十四年五月 小学校に奉職。以来足掛十三年小学校に勤めつつ勉強した。
 昭和十二年〔一九三七〕九月 岩手高等女学校奉職現在に及ぶ。
 昭和九年〔一九三四〕十一月 予試合格。
 昭和十一年〔一九三六〕十一月 予試合格。
 昭和十三年〔一九三八〕十一月 予試合格。
 昭和十四年〔一九三九〕一月 本試合格。
  文検受験に関しての感想
 毎月里余〔一里あまり〕の山路を歩いて小学校に通ふ事とて学校から帰ると身心共に綿の如く疲れて何も出来なかつた。夜は早く休んで午前一時から午前四時頃まで約三時間宛〈ズツ〉勉強した。頭ははつきりしてあたりは静かで能率が上つた。
 家庭的に職業的に苦労を重ねた為、遂〔に〕肺門浸潤をわづらふ事になり、医者から絶対に勉強を止める様に注意を与へられたこともあつた、然し私から勉強をとり去れば、何の生甲斐もなかつたので体に障らぬ〈サワラヌ〉程度で勉強した。
 暑中休暇冬期休暇は何よりの楽しみであつたが、職務上中々暇が見つからず苦痛な思ひもした。長い間私を優しく励ましてくれた母は一回の予試合格さへ知らずに、七年前に病死し、又数度の本試失敗にいつも勇気を奮ひ起さしてくれた父は、合格発表の四日前に脳溢血で斃れ、折角〈セッカク〉文検合格の曉〈アカツキ〉には私の成功を何より喜んでくれる筈の両親はこの世にゐなかつた。運命の皮肉といふものでせうか。
  本 試 受 験 感 想
 四回も続けて本試筆記を失敗してゐる私は「今度もまた駄目かな」と思つて余り期待しなかつた。発表の日午後四時からと云ふのに帰宅の準備をなし、日の暮れかゝつた頃、誰?もゐない文部省南門に発表を見に行つた。日もとつぷり暮れて暗い電灯のあかりに番号が見えてゐる。はじめから順に見て行つた。図らずも自分の番号が目にうつつた時には夢ではないかとばかり幾度も見直した。十幾年の重荷が下りた様な気がしたと同時に上京の際「若し筆試が受かつたら電報で知らして呉れ」と云つて三十銭の切手を下さつた煙山先生の慈愛に満ちた顔がありありと見えて、私の目からは涙がとめどもなく落ちた。「ありがたい先生」何度心の中で繰返した事でございませう。若し受からなかつたらこの切手は? 煙山先生に対する面目は? と考へてゐたのに、受かつてほんとによかつた。先生もどんなによろこんでくれるだらうと思ふと尚々嬉しかつた。かうして翌日の口述試験に臨んだのである。其の後約一ケ月後に合格の発表を見た。
 予試番号三五、本試番号五一五、口述番号三一、本試を受けること五回目、当三三歳、一、三、五の数字によつて福音がもたらされた事は不思議でならない。
  参 考 書 に 就 い て
 私の文検受験対策は実に拙なるものであつた。道しるべなく暗中を行く様なものであつた。石に躓き〈ツマヅキ〉、物に突き当り、やつと辿り着いた様なものである。随つて参考書等必要外のものも余程勉強した。私の見た本の中で、文検に必要なもののみを記し、其の中でも特に主力を注ぐべきと信ずるものを示さう。【後略】
  文検既出問題の研究に就いて【略】
  口述準備に就て私の見たもの
 【前略】
 平素の勉強を反省して
 1. 基本の知識が培かはれ〈ツチカワレ〉たら、中枢書に主力を注ぐべきこと。
 2. 焦って色々数多くの本を見ぬこと。(私はあせって多くの本を見たので後悔してゐる)
 3. 幾何学問題練習は解を見ぬこと。幾ら多く本を勉強した積りでも実力がつかない。
 4. 刺戟材として数学雑誌等見るのも気分が転換してよい。私の見たもの。
 文検世界、タゴラ雑誌、高等数学研究、物理学校雑誌、等である。
 タゴラ雑誌、高等数学研究の課題練習は、答案作製の練習にもなり限りある期間内に考へて問題を提出しなければならないから相当に緊張する。刺戟として誠によろしい。
 各科共,問題解法についての重要事項及重要問題を整理した「ノート」を軽く見る。
 文検問題集(解答付)の「ノート」を軽く見る(大正十年から昭和十二年迄の既出問題を各科分けにして且更に細く分類分けに整理作製したノート十二冊)
 毎度の受験に失敗するもの、誤〈アヤマリ〉を生じ易き吟味問題等も一通り研究する。(以上)   (受検記(5)は文検世界より転載)

 ここで、T.K.子さんのいう「文検」とは、中等教員検定試験のことである。彼女は、この試験に合格して、念願の中等教員の資格を得たわけだが、経歴を見ると、合格する以前に、すでに岩手高等女学校に奉職している。この経緯などについては、よくわからない。

コメント
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