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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

その瞬間、荒木貞夫の顔色がサッと変わった

2017-02-22 02:42:46 | コラムと名言

◎その瞬間、荒木貞夫の顔色がサッと変わった

 岩淵辰雄が、一九三五年(昭和一〇)八月に発表した、「林と真崎」という文章を紹介している。引用は、岩淵辰雄著『現代日本政治論』(東洋経済新報社、一九四一)から。
 本日は、その二回目。昨日、紹介した箇所のあと、一行あけて、次のように続く。

 林〔銑十郎〕と真崎〔甚三郎〕が二十年来の親友であるといふ、それにはエピソードがある。
 真崎が大佐で、陸軍省の登龍門である軍事課長になつたのは、田中義一〈ギイチ〉陸相時代である。林は同じ陸軍省でも、軍事調査会の課長であつた。そのころ内閣は原敬〈ハラ・タカシ〉の政友会内閣であつた。そして原と田中の関係で、陸軍省の機密費の支出を要することがあつた。陸軍の機密費には、いろいろな種類があつて、大臣、次官、あるひは局長以上で自由になるものと、当時のシべリア出兵費即ち臨時軍事費の如く、軍事課長の同意を要するものとある。その臨時軍事費の支途に関して、真崎が頑として反対したことがある。大臣、次官、局長と、大臣は田中で次官山梨半造、軍務局長菅野尚一〈スガノ・ヒサイチ〉といふ長州のお歴々が、上から順に持つて来たものに対して、臨時軍事費を支出すべき性質のものに非らずとして拒絶した。それが禍ひをなして、真崎は幾何〈イクバク〉もなくして連隊長に左遷されたが、田中は「真崎の奴、怪しからんから馘〈クビ〉にして了へ」と怒つた。それ以後は、これも長州の児玉〔友雄〕が軍事課員であつたが、書類は課長の真崎の手を経ずに児玉から直接局長の菅野に取りつがれるやうになつた。いまでも真崎は「軍人として、あのころほど不愉快な気持で暮らしたことがない」と述懐する。これほど不愉快な思ひをしてまで、陸軍に留まる必要があらうかとまで思ひ詰めた。真崎はその心衷〈シンチュウ〉を林に打ち明けた。林は「むかうで馘にするといふなら仕方がないが、正しいことを正しく主張して、それでお気に召さないのは、むかうの勝手で、こつちの知つたことぢやないから、こつちも、図太く行け」と激励した。林と真崎は、それ以来の深い交りである。林が第一次宇垣〔一成〕陸相で東京湾要塞司令官の閑職から待命にならうとした時、時の次官津野一輔〈ツノ・カズスケ〉に林の人となりを推薦して、首を繋いだものが川島義之と真崎である。
 林陸相になつてからの林と真崎の関係については、もう少し説明が要る。
 荒木〔貞夫〕が病気で陸相の辞意を決した時、荒木は真崎を病床に招いて「才レは辞める。それについて後任には、今まで苦労をともにして来た貴様を推薦するのが一番好いと思ふが、しかし期の関係からいつても、行きがゝりからいつても、こゝは林を推すのが順当だが、貴様どう思ふか」
 真崎は即座に「同意ぢや、みんなで林を助けて行かう」といつた。それから林を呼んで、荒木からそのことを告げると、
「オレは絶対に貴様の後任にならん。それには二つの理由がある。一つは弟(白上佑吉)のことだ。もう一つは、いままでオレは可なり強いことをいつて純理を称へて来た。しかし大臣になつて政府の責任の地位につくと、なかなかさうばかりもいへない。殊にこの内閣には同郷(金沢)の永井(柳太郎)もをり、南(弘)もゐる。その同郷の政界人を通じ、また齋藤〔実〕(首相)のお爺から泣きつかれた場合にオレではとてもいまの軍といふものは率ゐて行けない。それはオレが一番自分のことを知つてゐるから、絶対に大臣にはならない」
 といつた。荒木と真崎が口を極めて「オレ達が、決して貴様が窮地に陥るやうなことのないやうに助けるから引受けろ」と勧めたが、どうしても「ならぬ」といふ。そして「この場合の陸軍大臣は、軍の実情に通じて、いまゝでやつて来た真崎が後任になるのが一番好い、オレは殿下にさう申し上げる」
 林の決心は牢として動かすベからざる如く見えた。だが荒木は「しかし、これが殿下のお言葉だつたら、貴様どうする?」と訊いた。「殿下のお言葉でも、オレは御辞退申上げるだけだ」
「しかし、オレ達は貴様を推薦する。そのことはハツキリ申上げてくれ」
 それから林は教育総監として、参謀総長宮殿下〔閑院宮載仁親王〕の御前に伺候したのであるが、帰つて来ていふのに「殿下のお言葉で、後任を引き受けることにした」と。
 荒木はその瞬間サツと顔色が変つた。しかし落ち着いて「それでオレもやつと重荷を降した」といつた。
 林が実弟白上〔佑吉〕が第一審で有罪と決定した時辞表を出した。その辞表を出す前日に、真崎は何かの記念会で、日比谷の市政会館に行つてゐたが、林も同席してゐて「オレは明日辞表を出すつもりだ」と云ふ。
「どう云ふわけで」
「明日弟が愈々有罪の判決がある。いろいろ裁判の方のことを探つて見たが、どうも逃れられないらしい。だから自分も辞表を出す」
「しかし、そんなことで一々陸軍の首脳者が辞表を出されちやたまらん。思ひ止まれ」
 いろいろ問答したがその時林はかういつた。「あとどうなるか知らんが、とにかく一旦は辞表を出す」と。
 それを聞いて、これなら留任を勧めれば、必ず思ひ止ると真崎は察した。結局林は留任して今に至つたのであるが、この時荒木はかういふことをいってゐる。それは林が後任に荒木を推したので、それに答へる意味でではあるが、
「大臣といふものはさう軽々しく出たり入つたりするものでない。貴様辞めるといひ出したら、ほんとうに辞めるか」
と。それから別に真崎に向つて、
「こゝは留任で行くのが一番穏かだ。深入りしたら飛んだごたごたが起るぞ」【以下、次回】

 荒木貞夫の言葉で、「期の関係からいつても」というのがあるが、これは、林銑十郎の方が真崎甚三郎より、「期」が早いという意味であろう(林は、陸軍士官学校第八期、陸軍大学校第一七期、真崎は、陸軍士官学校第九期、陸軍大学校第一九期)。
 また、「荒木はその瞬間サツと顔色が変つた」という箇所がある。いかにも見てきたような記述だが、事実そういうことがあった可能性は否定できない。つまり、荒木としては、林が参謀総長宮に会って、陸相を辞退してくることを予期していた(期待していた)のではないか。少なくとも、岩淵辰雄が、そのように捉えていたことは間違いない。

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