礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

実美篆額、竹堂撰、博文後記、三州書、群鶴刻

2017-02-03 03:42:32 | コラムと名言

◎実美篆額、竹堂撰、博文後記、三州書、群鶴刻

 昨日の続きである。昨日は、伊勢齋助編次『林子平先生伝』(龍雲院、一九二七)に、伊藤博文が林子平を論じた文章(漢文)が載っていることを紹介した。
 伊藤博文の師である吉田松陰は、林子平の『海国兵談』(一七九一)を読み、影響を受けたとされている。吉田松陰の弟子である伊藤博文が、林子平に関心を持っていたとしても不思議はないが、わざわざ、その墓所を訪ね、苔むした墓石を確認していたことは知らなかった。
 そこで、インターネットで「伊藤博文 林子平 墓」を検索してみると、伊藤博文の「林子平墓前作」という漢詩がヒットした。ブログ「詩詞世界 碇豊長の詩詞」から、引用させていただこう。

  林子平墓前作  伊藤博文
昇平三百年、 挙世高枕眠。
海内幾多士、 君独着先鞭。
日本橋頭水、 遠連龍屯〈ロンドン〉天。
辺防豈可忽、 牢艦非漁船。
精神凛如見、 格言千古伝。
我来弔墳墓、 懐古涙潸然〈サンゼン〉。

 この詩が作られた時期について、右ブログは言及していなかったが、昨日、紹介した漢文によって、一八七九年(明治一二)一一月と判断できる。
 それにしても、明治期の政治家の教養というものは大したものである。漢詩も作れば、漢文も意のままである。今日の内閣総理大臣は、演説の際、漢字にふりがなを振った原稿を呼んでいると言われているが、初代の内閣総理大臣を務めた伊藤博文が、これを知ったとすれば、おそらく驚倒するのではないか。
 閑話休題。昨日、紹介した伊藤博文の漢文の最後に、「広群鶴鐫」という四文字があった。これは、「広群鶴」という石匠が、これを刻んだの意味である(鐫の音は「セン」、訓は「ゑる」、彫るの意)。ここで、「広群鶴」とは、当時の有名な石匠、七代目広群鶴〈コウ・グンカク〉のことである(実名は、広瀬群鶴)。
 ここまでわかると、昨日、紹介した伊藤博文の漢文は、齋藤維馨撰「林子平伝」とともに、石碑に彫られたものであろうと見当がつく。事実、インターネットで「広群鶴」を検索してみたところ、仙台市青葉区子平町〈シヘイマチ〉の龍雲院には、「林子平之碑」というものがあることが判明し、碑面の拓本を見ることもできた。上部に「林子平之碑」という篆額〈テンガク〉あり、齋藤維馨撰「林子平伝」のほか、末尾には、伊藤博文の文章が彫られていた。
 同拓本によれば、最初の一行は、次の通り。

林子平伝 太政大臣従一位勲一等三條実美篆額 齋藤維馨撰 従五位長炗書

 昨日は触れなかったが、実は、伊勢齋助編次『林子平先生伝』にある、齋藤維馨撰「林子平伝」も、最初は、そのようになっている。つまり、同書は、「林子平之碑」の碑面を、ほぼ、そのままの形で、再現していたわけである。ただし、これが、「林子平之碑」の碑面にある文章であるという注記はない。また、最初の「従五位長炗書」のところは、「従五位長莢書」と誤植されている。長炗〈チョウ・ヒカル〉は、幕末の志士、明治初期の官僚、明治中期の書家として知られる長三州(一八三三~一八五九)の名である。
 それにしても、この「林子平之碑」はすごい。三條実美篆額、齋藤竹堂撰、伊藤博文後記、長三州書、広群鶴刻と、これだけの多くの著名人が関わった碑というのは、そうザラにはないと思う。一度、現地に赴いて、実見してみたいものだ。その際、これが建てられた年代も、確認しておきたいものである。

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