◎この世にこんなことがあってよいかと感動した
少し前の話になるが、二〇一三年七月一三日に、明治大学リバティータワーで、「『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』出版記念シンポジウム」というシンポジウムが、開催された。現代史研究会、社会運動史研究会、同時代社の共催で、古賀暹氏の 「北一輝とは何だったか」、安田善三郎氏の「二人の兄の遺稿を整理した者として」などの講演があった。古賀暹〈コガ・ノボル〉氏は、雑誌『状況』の編集者として知られた人であり、また、安田善三郎氏は、二・二六事件を惹起した青年将校のひとりである安田優〈ユタカ〉の弟さんにあたる人であった。
非常に有益なシンポジウムであった。そのシンポの会場で、社会運動史研究会編『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』(同時代社、二〇一三年七月五日)が売られていたので、記念に購入した。
さて、本年になって、久しぶりに、この本を手にしてみて、意外な事実に気づかされた。この本に資料を提供した安田善三郎さんが、渡辺和子さんと交流があったという事実である。渡辺和子さんは、言うまでもなく、渡辺錠太郎教育総監の次女にあたる方である。
二〇一二年八月一一日のブログで私は、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」と題するコラムを書いた。渡辺和子さんが、文字通り目の前で、この事件に立ち会った歴史的な証人であることは、よく認識していた。にもかかわらず、その翌年に買い求めた『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』というに、渡辺和子さんの名前が出てくることを見落としていた。講演を聴いてわかったような気になり、本はろくに読んでいなかったのである。迂闊なことであった。
本日は、同書中、安田善三郎執筆「反乱への軌跡とその残影」から、末尾に近い部分(二六六~二六七ページ)を引用させていただこう。
昭和十一年〔一九三六〕一月の中頃、歩兵一聯隊の栗原〔安秀〕中尉の許〈モト〉に中島〔莞爾〕少尉(陸士同期)と共に行き、厥起すべきことを申し合わせた。相沢〔三郎〕中佐の公判を見て、も早〈モハヤ〉大衆運動ではなく維新を断行すべき秋であると考えたからである。この時、彼の事件参画への決意は決定的になる。
二月二十五日午後一一時、中島少尉の下宿で村中孝次と会い、村中から実行部隊の準備が完了した旨を告げられ、二十六日の黎明を期して断行することを申し合わせ、更に坂井〔直〕部隊に入り斎藤〔実〕内府、渡辺〔錠太郎〕教育総監の襲撃殺害の任務を与えられる。
中島とは死を期してやるべきだが、断行後万一、二人のうち一人でも生き残れば、相互の両親に実行の精神を充分理解させることを約束して別れ、寄宿先の義兄冨田〔義雄〕宅へ帰る。
その途次、荻窪駅で天草から出奔して来た実弟肇に会う。肇は彼の訓戒に従って帰郷する途中であった。その時、彼は「軍人は何時死ぬか分からぬから、死んだら雨親を頼む」と言い、涙を呑んで別れた。ところが不思議なことに、内務省に勤務している実兄薫にも同所で会い、弟を帰してくれることを頼んで別れた。自由の身で兄弟と会った最後である。
義兄宅に帰った彼は覚られないように拳銃と実包〈ジッポウ〉を携え、午後六時頃家を出て、歩兵三聨隊に行き、襲撃の準備を整えた。
翌日払暁〈フツギョウ〉、彼を含む四人の将校に指揮された部隊は斎藤邸を襲撃、内府を殺害し、誤って夫人にも傷を負わせる。
さらに高橋〔太郎〕少尉と彼は、三十数名の下士官兵を率いて荻窪の渡辺邸を襲撃、すず夫人の制止を振り切り、大将を求めて屋内に侵入し、兵士達の脚だけを狙って拳銃で応射する大将に機銃弾を浴びせて殺害する。その方法は余りにも残酷であった。
渡辺大将の次女和子先生はこの時九歳。惨劇の一部始終を至近距離から目撃されるという悲惨な体験をされた。
軍法会議の結果死刑の判決を受けた彼は、七月十二日他の十四名とともに代々木原頭〈ゲントウ〉で処刑される。享年二十四歳。〔天草市〕新和町明栄寺〈ミョウエイジ〉の墓地に眠る。
彼は、犠牲になられた方の冥福とご遺族のお幸せを祈る言葉を唯一言遺書に書き残して世を去るが、骨肉を分けた弟としては、例えようもなく胸が痛む。彼が残した十字架は、如何に重くとも残された者が背負って歩かなければならない。
彼が死をもって贖った〈アガナッタ〉ものは叛徒という汚名であり、双方の遺族に残したものは、癒されることのない悲しみと苦しみであった。そして、彼が何を意図したかに拘わらず、日本は破滅への道を迪り、終に敗戦を迎える。
時は移り事件五十年後の昭和六十一年〔一九八六〕七月十二日、耐え難い悲しみを担つて、事件後の長い人生を歩いていらっしゃる渡辺和子先生(当時ノートルダム清心女子大学学長、現在ノートルダム清心学園理事長、日本カトリック学校連合会理事長)は修道服に身を包み、東京麻布の賢崇寺〈ケンソウジ〉で行われた先生の目の前でお父上渡辺大将を殺した兄〔安田優〕を含む刑死者を弔う法要に遠く岡山からお詣り〈オマイリ〉戴き、彼らの霊前に香を捧げ分骨を納めた墓前に手を合わせて額づいてくださった。
このお姿に接した私は、この世にこんなことがあってよいものかという思いに駆られ、胸がつまり、未だ嘗って経験したことのない深い感動に打たれ号泣した。
一九八六年七月、東京・麻布の賢崇寺でおこなわれた法要に参加された渡辺和子さんは、その後、二〇一二年八月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』二〇一二年九月号に、「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記を発表されている。そして、その四年後の二〇一六年一二月三〇日に、八九歳で亡くなられている。【この話、続く】