◎萩原朔太郎と生活人としての用意の深さ
一昨日、昨日と、萩原朔太郎のエッセイを紹介した。出典は、いずれも、小学館版萩原朔太郎全集10の『日本への回帰』であった。
小学館版の萩原朔太郎全集全一〇巻は、萩原朔太郎の死から一か月も経たない一九四二年(昭和一七)六月初旬に発案され、一九四三年(昭和一八)四月から配本開始、一九四四年(昭和一九)四月に第一〇回配本(第一〇巻『日本への回帰』)を終えている。
しかも、同年中に、別巻上下二巻も刊行されている(現物は未確認)。戦時下に、こうした事業を完成させた関係者の努力に頭が下がる。ちなみに、編集代表は室生犀星〈ムロウ・サイセイ〉、編纂・解題・編註は伊藤信吉が担当した。
架蔵の全集第一〇巻『日本への回帰』に、四ページの「附録」が挟まれている。そこには、室生犀星が「後憂」という文章を寄せている。本日は、この「後憂」の全文を紹介してみよう。
後 憂 室生犀星
萩原君は表べ〈ウワベ〉は勉強家には見えなかつたけれど、あれで却々〈ナカナカ〉勉強をしてゐた人に思はれる。大抵、時間のある午前中は何か知ら書いてゐて、何時も書きたまつた原稿があつたやうだ、ノートなぞにも丹念に書き込んでゐたし、大判の原稿紙の全紙をひろげ元気な太い文字でがつがつ書いてゐて、あまり飽きることのなかつた人だ、快刀乱麻といふ言葉があるが萩原君はペンをとると何時もそんな傾向のある筆剣家であつた。遠慮や思ひ渋りなぞしないで思ふ侭書いた人である。実際の人としての萩原君は決して強い人ではないが、原稿に向ふと冴えた勁い〈ツヨイ〉人になつて戦ふものと戦ひ、厭なら厭ではつきりそのことを決めてものをいふ人であつた。あの人がこんなことをかくと思はれる位、思ひ切つたことを書いた。西洋人の名前とか哲学とか思想とかいふものも、萩原一流のこなし方でぐんぐんこなして行つて、ひととほり読むことができたし、難かしい無内容なこともずゐぶん書いてゐた。原稿紙のうへでは熟慮といふものを外にして気短かく、がつがつして書いた人である。
萩原君は人を遣つつけるよりも、よく人を褒めることで先輩の落ちこみやすい陥し穽〈オトシアナ〉にはまり込んでゐた。自分にないものを読むと無条件にほめてゐたし、褒めることでたいへん気をよくしてゐた。褒めすぎる傾きがあり私なぞはよく又褒めたといふ気がしないでもなかつた。併しその正直で気取らない発見的なる褒め方は、読んでゐても気味のよいものがあつた。褒められた人で一層良くなつた作家もあり実力がずつとふえた人もあり、そのためにいぢけた地位を明るくした人もあつた。併し大体に於て少々褒めすぎてゐたし褒め方が子供ぽいところがあつたが、私といへどもその褒め方にはやはり注意して読んでゐた。だから外の人が面白く読まないことはなかつたであらう。
坐談の評語はその人をよくあらはしてゐた程、萩原の批評といふものがぴつたり当つてゐて面白かつた。むしろ原稿に書かれてゐない分を話してゐたから、原稿よりか直接性があつてきびきびしてゐた。話をするやうに書いてゐたらもつと面白いものを書いた人であらうが、原稿になると小さな理屈が邪魔をしてゐて、どうも固くて陳腐な感じがあつた。
水戸の高等学校で講演を一度きいたことがあつたが、ちつとも面白くなく固いばかりで内容が乏しく、甚だ退屈な講演だつた。抑揚もなければ声もよくなかつた。わが友萩原にしてすでに然るかと思ふくらゐ、無味乾燥なおしやべりであつた。 そのことを話すとあれは二度も三度もやつた講演だといつたが、正直にいふ私の毒舌にも少しは当つてゐたところがあるのか、不機嫌に彼はだまり込んでしまつた。あれほどの正直さに純情を持つた彼にして、事、原稿のうへに文字をならべるとあんなに固くなるし、講演をすると千遍一律で面白くないとしたら、人といふものはその作と人の二面がぴつたりと息が合ふといふことが、よくよく難かしいものに思はれる。
【一行アキ】
萩原君を憎んだ人は私は一人も知らない、萩原君をにくんだ人はおそらく一人もゐないやうに思はれる。凡そ人ににくまれるやうなことは仕向けないし、その生涯に誰一人として彼の悪口をいつたものとてもゐない、大抵の人は萩原君に一度あへば、決つていい人だといつて、すぐ尊敬に似た愛され方をする人である。どういふ人にも気取らないで話をする人であり親しくする人だが、そのなかに彼らしい睡気のあるところもあるが、 決して人をいやがらせるやうな人でない、それでゐて客や人につとめるといふこともなく、いつも、萩原らしい自然さでちらちらと退屈の気持を見せながら話をする人だ、それでゐて人を愛することは却々しない方〈ホウ〉で、向ふで愛してくる方なのである。彼のまはりにゐた若い詩人達は萩原君をとりかこんだ会合をよくひらいた。萩原君をなぐさめるといふよりああいふ物のいひやすい人と一緒にゐるのが、気づまりなぞないから集まるといふふうであつた。萩原君はそれをきらふといふこともなく、よく出てよく話していよいよ尊敬を深められるといふ側であつた。私の家の子供なぞは萩原君を面白い人といひ、よく、したしみを感じてゐた。別に子供に笑ふやうなこともしないが、全体の容子にをかしいところがあつてしたしまれた。どこかに、をかしいところのある人といふものは萩原君の場合では、燦然〈サンゼン〉としてつねに輝いてゐた。これはそんなに沢山あるべき徳ではない、大作家とか偉人とか大詩人とかにまるで霊的な匂ひを放つてゐるものであつた。
【一行アキ】
萩原君の詩壇の地位はいつもどういふものであつただらうかと、私はしばしば考へるのだが、それはたいへんに深く、後の人にはかけがへのない特異な詩人になつてゐて、心ある若い人の間に愛されてゐた、私は特に立派な詩だとも思はないし、その詩にのぞむ心構えへにも啓発されないが、不出世の詩人であることは肯づける、あれだけの作品を持つて出る人すら滅多にゐないのであるから、秀れた詩人といふものは容易にあらはれるものでないことが判る。立派さとか広さの点では高村光太郎君なぞは或ひは、萩原君の上にゐる人であるかも分らぬが、萩原君に見る何時も油断したばかばかしい美しさは、高村君に見るべくもない、子供のやうな率直さで少しの構へもなく歌ふ彼は、いつも大人になり切つてゐて何時も張つた心の構へを見せる高村君とはだいぶ違ふ。高村君の張り方も純一であり人としての立派さを手にとり上げてゐる彼とは、くらべられぬ詩人であるが、やはり萩原君のながれるやうな嘆きの抒情が人を惹きつけるのが弱さの美であり、弱さの美といふものは花がこぼれるやうな脆さの美である。彼はそれをたくさんに持つてゐるのだ。
人として愛される彼は、いつも詩の作品のうへからも人として愛されることと同じくらゐに、人びとから好意をもたれ、愛されてゐることは彼の高い徳であるとしなければならぬ。彼の場合はいつも生活人として彼に特に萩原であるからといふ言葉が冒頭にをかれるやうに、詩や詩論の場合も萩原太郞であるからといふふうに、気らくにしたしく、少しも怖さや邪魔気〈ジャマッケ〉なくさういはれるのである。ものの言ひやすさを見せ、弱さを見せる表べの彼は、内にはいると変に剛直であり何時も立直つてゐるのだ。彼は生活人として失敗したこともなく、作品としても劣作を書いてゐないのは、ちつとも構はないでゐるやうに見える彼の、生活人としての用意の深さを見せ、作品的には何時も概念がまとまつてゐるからであつた。あれほど隙だらけの人がその生涯がつつましく、少しも乱れを見せなかつたのも、心がけがぢみであつたためであらう。
萩原朔太郎の文章や詩について遠慮なく批評し、その人となりについても遠慮のない描写をおこなっている。無二の親友であった室生犀星だからこそ書けた文章だと言える。
生活人としての萩原朔太郎について、私はほとんど何も知らないが、「ちつとも構はないでゐるやうに見える彼の、生活人としての用意の深さ」という、室生犀星の指摘は当たっているように思えてならない。というのは、萩原朔太郎のエッセイに、そうした「用意の深さ」が感じ取れるからである。
なお、室生犀星の上記のエッセイは、「萩原朔太郎」論としては出色だが、文章そのものは、かなりザツであって、文意がつかみにくい箇所がある。文章に関して言えば、萩原朔太郎のような、「用意の深さ」が欠けている。もちろんこれは、主観的な感想にすぎないが。