礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

沖縄失陥とともにソ連は満洲に進出する(繆斌)

2017-06-10 02:53:24 | コラムと名言

◎沖縄失陥とともにソ連は満洲に進出する(繆斌)

 東久邇宮稔彦『私の記録』(東方書房、一九四七年四月)から、「布衣の使」の章を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分のあと、一行あけて、次のような『註』がある。
 この『註』=「緒方国務大臣の談」は、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)の一九四~一九七ページにある(註)=(緒方国務相談)と、基本的に同文である。そして、この(緒方国務相談)は、当ブログの昨年四月六日のコラム「事態を真面目に検討するの意思がない(緒方国務相)」の中で、紹介済である。
 しかし、一昨日および昨日、紹介した東久邇宮の証言と対照するために、ここで再度、紹介してみる。なお、句読点、用字等は、『私の記録』に従う。

 『註』
 緒方国務大臣の談―― 中村正吾著『永田町一番地』(第一九四頁)
 小磯総理の命を帯びて中支の情勢視察に出掛けた山縣〔初男〕大佐が、偶然にも繆斌と相会し、やゝ具体的な案を持つて帰つたので、小磯〔国昭〕総理はまづ外務、陸、海軍と諒解の上で、情報入手の名目をもつて、繆斌を呼ぶことに決した。しかし陸軍は依然きわめて消極的で、飛行機の手配等一向にはかどらない。しからば代案があるかといえば何等の見通しも持つていない。結局、小磯総理からの督促によつて飛行機を用意し、繆斌は単身羽田に飛来した。はじめ繆斌の計画は無電技師その他七名の一行で東京から直接、重慶と連絡することになつていたのである。
 小磯総理は、その位置上、すぐ繆斌と会見することを控えたいというので、僕〔緒方〕が代つて、二日に亘り種々、繆斌の意向を叩いて見たが、彼が蒋主席よりの電文写しその他の証拠品を所持しており、彼の有する案についても、重慶の意向が明瞭にされていた。勿論、日本としても、対中国政策の百八十度転換であるから、繆斌の提案をそのまゝ呑むことは、内外の事情困難であるが、所謂重慶工作を開く基礎には充分であると考えた。そこで、僕は一切を小磯総理に応答し、場合によつては、僕自身重慶に使〈ツカイ〉してもよいというと、小磯総理は非常に乗気になり、それでは最高戦争指導会議を開くから、一つ原案を用意し、且つ君も会議に出てくれとのことだつたので、繆斌の提案たる、南京政府解消、停戦撤兵、引継機関としての留守府開設案とともに「専使を派遣し蒋主席の真意を確むべき」旨の意見を附して、原案を用意した。然るところ、最高戦争指導会議においては、重光〔葵〕外相まず、南京清水書記官の情報に基いて真向より反対し(繆斌の経歴をのべて信用すべからずとするもの、周●なる名を用いて態と〈ワザト〉繆斌といわず)、ついで杉山〔元〕陸相、梅津〔美治郎〕参謀総長、及川〔古志郎〕軍令部総長、米内〔光政〕海相も皆反対又は賛否を留保し、会議は極めて白けた空気の中に散会した。要するに最初より事態を真面目に検討するの意思がないのである。
 僕は、事の余りに不可解なるを見て、最初から熱心に此工作を支持せらたる東久邇宮殿下に、以上の顛末を申上げ、一方米内海相にも助力を求めた。殿下は杉山陸相、梅津参謀総長を個々に招じ、熱心に事態の収拾を解説されたが、陸相、総長共に一向にえ切らなかつた。米内海相には僕自身、今や戦争のみを以てしては局面の打開は殆ど不可能である。万一敗戦の場合、顧みて打つべき手が残されていてはお上に対し申訳ない次第ではないかと、切に海相の共鳴を求めたところ、海相は、君の誠意は認められるが、事〈コト〉茲に至つては内閣は最悪の場合に陥る外なからうとのことであつた。こゝに於て、小磯総理は四月一日、参内した。こえて四月三日、陛下より改めて重光外相、杉山陸相、米内海相に対し御下問があり、三相等しく反対意見を奉答したため、こゝに小磯内閣の瓦解となつた。
 繆斌と重慶と如何なる関係にあつたかは今以て以て明白でない。が繆斌自身は、はじめより、自分の権限は三月三十一日を以て期限とすること、自分は直接重慶を代表するものに非ず、重慶の代表者は目下上海にあつて、総ての指示を与えているのだと率直に語つてゐた。しかしいづれにせよ、彼が重慶との連絡を確保してゐたことは事実で、東久邇殿下は、既に万一の場合を予想され、この路線を通じ、対米交渉にまで発展せんことを熱心に期待され、僕も同様の考えでいた。繆斌も亦、米国の同意又は参加なき直接交渉の不可能なることは、暗に語つており、沖縄失陥とともに、ソ連は必ず満洲に進出するという見透しで、極度に焦つていた。勿論、この工作完成には非常の困難が予想されたが、一種の囚はれた感情から全然着手されなかつたことは、遺憾である。

 文中、●の部分には、サンズイに杉という、あまり見かけない字がはいる(『永田町一番地』では、「彩」)。
 さて、この緒方竹虎の証言によれば、東久邇宮が、杉山元陸相、梅津美治郎参謀総長と個別に会談したのは、最高戦争指導会議の「あと」である。
 しかし、東久邇宮稔彦王の証言によれば、彼が、杉山元陸相、梅津美治郎参謀総長を「呼んだ」のは、最高戦争指導会議の「前」であったかのように読める。
 どちらかの記憶に誤りがあることになるが、緒方竹虎は、最高戦争指導会議に出席していることからすれば、緒方の記憶を信用するのがスジであろう。しかし、東久邇宮は、わざわざ、緒方の証言を『註』としたうえで、それとは異なることを述べている。東久邇宮の記憶を、簡単に否定するわけにもいかない。

*このブログの人気記事 2017・6・10(5・7・9位にやや珍しいものが)

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