礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ジラードが「執行猶予」になるまでの経緯

2017-06-12 01:43:08 | コラムと名言

◎ジラードが「執行猶予」になるまでの経緯

 二〇一四年の三月二八日から三〇日にかけて、一九五七年(昭和三二)一月三〇日に起きた、いわゆる「ジラード事件」について紹介した。というより、池田正映弁護士の著書『群馬県重要犯罪史』(高城書店)から、第三部の第五〇項「相馬ケ原弾拾い射殺事件」を紹介した。
 この本は、前橋市市之坪町の高城書店出版部から刊行されたものだが(発行者は高木楚材)、どういう訳か、奥付に発行年月日の記載がない。また、この本は、国立国会図書館に架蔵されていない。
 最近になって、山本英政『米兵犯罪と日米密約――「ジラード事件」の隠された真実』(明石書店、二〇一五年七月)という本を読んだ。ジラード事件を扱った単行本というのは、これまでなかったと思う。期待して読んだが、期待を裏切らない好著であった。今後、この事件を論じようとするものは、必ず同書を参着することになろう。
 同書は、調査・考察が周到であるのみならず、図版も豊富で、そのセレクションも適切である。ただ残念なことに、参考資料などが同書には付いていない。せめて、前橋地裁における判決文(昭和三二年一一月一九日、河内雄三裁判長)だけでも、付録として載せてほしかったと思う。
 ちなみに、池田正映弁護士の『群馬県重要犯罪史』は、同書には引用されていない。国立国会図書館にもない、マイナーな本に、山本英政氏が気づかなかったのは、けだし当然であろう。
『群馬県重要犯罪史』の「相馬ケ原弾拾い射殺事件」は、前半が判決文の摘要であり、後半は事件の経緯を池田弁護士がまとめたものである。すでに、当ブログで紹介している文章ではあるが、この際、再度、紹介してみたい。
 今回は、「相馬ケ原弾拾い射殺事件」の全文を、一度に紹介する。〔 〕内は、引用者の注記、〈 〉内は、引用者による読みである。文中、疑問のある箇所には下線を引き、そのあとに〔ママ〕としておいた。

   相 馬 ケ 原 弾 拾 い 射 殺 事 件
     (徴役三年執行猶予四年)
        ウイリアム・エス・ジラード(当二十年)
犯 罪 事 実〕被告人は一九三五年八月十一日米合衆国イリノイ州ストリタ市で出生し小学校八年中学校一年の課程を修めた後、一九五三年十一月米合衆国陸軍に志願して服役し日本国と米合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定いわゆる米合衆国陸軍の一員として一九五四年四月日本国に入国し、北海道駐留部隊勤務を経て同年九月埼玉県大里郡三尻村所在キヤンプウイテイントンに移り以来同キヤンプに駐留し本件当時米合衆国陸軍第一騎兵師団第八騎兵連隊第二大隊F中隊所属の三等特技兵として自動車運転手をつとめその後肩書部隊〔群馬県邑楽郡大泉町大字小泉所在合衆国陸軍キヤンプ・ドルウ地区司令部司令部中隊〕に転属し現に服役中のものである。
 被告人は昭和三十二年一月三十日群馬県群馬郡相馬村(この村名は本件当時のもので以下の記載も同様である)所在キヤンプウエア演習場(榛名山の東南ろくに位置し面積約七百万坪に及ぶ旧日本陸軍相馬ケ原演習場)で行はれた〔ママ〕右F中隊所属将兵三十〔ママ〕名による演習に小銃手として参加し、同日午前八時前後ごろ同演習場内相馬村大字広駒所属御岳山(米軍による呼称名はシユライン・ヒル以下カツコ内の名称はすべて同趣旨である)附近から小銃および軽機関銃の実包射撃による陣地攻撃演習を開始し、その北西方約一キロメートルの附近にある天神山(チヨコレート、ドロツプ)を経て、その後北西方約二百メートルにある同大字所在物見塚(六五五ヒル、標高約六百五十五メートル)を攻撃し、午前十一時過頃ひとまず午前中の演習を終了し、昼食のため物見塚附近で休憩に入つたのである。
 そもそも日米両当局はかねてより同演習場付近の要所に立入禁止の標柱および制札を設置するほか演習実施の際にはその周辺の住民に対し、関係機関を通じて演習を行うむね警告するとともに演習当日同演習場周辺など各所から見やすい特定の場所に赤旗を掲揚して危険につき演習場内への立入りを禁止するむね警告し地元日本国警察当局も演習中一般民衆の立入禁止のため種々の方策を実施しかつ日米両国の関係機関においてしばしば協議を開きその実効をあげるための対策を講じもつて危害の発生を未然に防止するよう努力していたが同演習場が前記の行政協定第二条にいわゆる合衆国軍隊が使用する施設又は区域であるか否かが明らかでないため同演習場内の立入行為そのものをとくに処罰できなかつたことと他方銃弾の空薬きよう〈カラヤッキョウ〉や砲弾の破片などの金属が高価で売れるところ米軍当局がこれら物資の処理にほとんど関心を示さなかつたことからこれを拾得して生計の足しにするなどのため右住民のうち演習場内へ立入る者も漸次ふえついには右警告などをも無視演習実施中にもかかわらず場内へ立入りしかもこれら弾拾い〈タマヒロイ〉の増加に伴いその相互間の競争も激化し演習のため行動する将兵につきまとつて拾い集める者も出てくる一方米軍将兵のうちには右弾拾いに対し好意的に多量の空薬きようを与える者もあつて弾拾いに対する日米双方の取締も所期の成果をあげ得ない実状であつた。
 本件の一月三十日におけるF中隊の演習に際してはしんちゆう〔真鍮〕の小銃弾や軽機関銃弾の空薬きようが拾えるためか演習開始の頃から少なくとも六、七十名に余る弾拾いが前記警告を犯し演習場内に立入りある者は演習中の将兵につきまといある者は散兵線の前方に飛出しある者は射撃直後の焼けた軽機関銃の周囲に群がり先を争つて空薬きようの拾得に熱中する余り演習の執行を妨げるとともに将兵ならびに弾拾いの身命に危険を招いたため実包による演習を中止し午後の演習においては空包を使用することに前予定を変更させてしまう程の状況であつた。
 かかる状況の下にF中隊は昼食後午後零時〔ママ〕すぎごろより演習を再開し部隊をモーホン少尉指揮の一隊とジガンテイ少尉指揮の一隊とに二分し被告人はモーホン少尉の隊に属しまずモーホン少尉指揮の下に御岳山付近に至り同所から行動を開始物見塚東峯およびその周辺に布陣するジガンテイ少尉の隊を攻撃しての攻撃において匍伏前進しあるいは実包〔ママ〕を撃ちながら進撃し物見塚東南ろく付近に到達した。
 午後一時半ごろ攻撃を終止して将兵一同物見塚東峰に登り続いてジガンテイ少尉の隊が右同様の演習を実施するためモーホン少尉の隊と交代して物見塚を降り御岳山に向かい出発したがその交代にさいしモーホン少尉はじめジガンテイ少尉より物見塚の東西両峰の中間に存する鞍部〈アンブ〉中央付近に存置する軽機関銃一挺およびフイールド、ジヤケツなど数点の管理を引き継いだのである。
 当時モーホン少尉指揮下の将兵は右のような攻撃演習を実施した直後であつてその多くの者はかなり疲労していたため物見塚東峰頂上付近からその東側斜面上にかけてモーホン少尉をはじめ各自思い思いの姿体〔ママ〕で休憩をとつていたのであるが同少尉はたまたまその身辺にいた被告人およびビクター・N・ニクル三等特技兵の両名に対し前記軽機関銃などの警備を命じこれがため被告人はニクル三等特技兵とともに右の鞍部に赴き休憩を兼ねながら右軽機関銃などの警備の任に就いたのである。たまたまそのころ物見塚西峰の東側斜面およびその南側ふもと付近に少なくとも数名以上の弾拾いが空薬きようを拾〔ママ〕機会をうかがいながら演習の推移や将兵の挙勤を見守るようにしていたのであるがニクル三等特技兵は右の警備に就くや間もなく身辺に落ちていた銃弾の空薬きようを拾つて右の鞍部南斜側面下方に投げ捨てはじめこの動作を数回繰り返し行なううち被告人は右ニクルをして被告人の所在位置から程遠くない右の鞍部南側斜面上の個所に空薬きようを投げさせた。前記西峰の東側斜面に待機していた弾拾いに向つて手招きをしながら声をかけ右の空薬きようが投げ捨てられた個所を指したので弾拾いの一人が右の斜面上から下りその場にかけつけ空薬きようを拾い始めたが同時に右鞍部の西端北側付近からも弾拾いの一人である相馬村大字柏木沢六五四番地の二農業坂井秋吉の妻女なか(明治四十三年八月十三日生)が同所にかけつけ空薬きようを拾得しようとしたところ被告人ジラードは同女に対し鞍部西端付近にあるごうを指さし「ママサンダイジヨウビ、プラス〔ママ〕ステイ」といいもつて同女をして右の壕内に空薬きようが多量にあるから拾つてよいむねを理解させよつて同女をごう内に赴かせたうえ(時に午後一時五十分頃と思われる)所携のMⅠ〈エムワン〉小銃の銃先に装置せる手りゆう弾発射装置に空包小銃弾空薬きよう(長さ約六二・六ミリメートル底部の直径約一一、九ミリメートル)をその開口部を奥にして差し込み空包一発を装てんした上突如同女に向かい「ゲラルヒア〔ママ〕」と叫ぶとともに右小銃を携えたまま前記の壕に向い走り寄りもつて同女を威嚇しこれに驚いた坂井なかが壕から這い上りその北西方へ逃げのびようとして走り行くその背後十メートル内外の距離から同女の身辺をねらつて空包を撃ちこの空包のガス圧により前記空薬きようを発射しもつて同女に対し暴行を加えたところ意外にも右空薬きようが同女の左背面第七肋間部に命中しその射入に因つて同女は左背部から下行〈カコウ〉大動脈上部に達する全長約十一センチメートルの盲管射創にもとづく大動脈裂創を負わせ右裂創による失血のため即時その場において右坂井なかを落命させたものである。
参 考 事 項〕一、昭和三十二年一一月一九日判決(懲役三年執行猶予四年)
二、一月三十日午前一時半相馬ケ原演習場で坂井なかが殺されたと高崎警察署に連絡があり同署と群馬県警察本部とで捜査を開始翌三十一日死体解剖で体内より薬きようを発見射殺の疑いが深まつた。
 二月一日岡田三千三〔三千左右〕県警刑事部長等は目撃者小野関英治を伴い三ケ尻米軍キヤンプを訪ね事件当日の演習参加者の首実験の結果犯人はジラードと判明し同月五日米軍の取調べでジラードが射つたことを自供するに至つた。
三、同月七日米軍はジラードは事件当時公務中だつたとの証明書を発行した。
 同月九日警察はジラードを傷害致死罪で書類送検、前橋地検は同月十一日ジラードを現場に出頭させ日本側証人と共に実施検証翌十二日ジラードを地検に出頭させ取調べたが同人は殺意を否認し過失事故を主張した。
四、之より先二月二日群馬選出社会党茜ケ久保〔重光〕代議士は本件を取り上げ政治問題化し同月六日衆議院内閣委員会で報告「米軍は日本人を犬猫のように狙い打ちした」と強調した。
 同月十五日政府は国会で事件を公務外の傷害致死と見ると言明「公務中」を主張する米軍の見解と対立しこの為事件は日米合同委員会刑事特別分科会の交渉に持ち込まれ以後三ケ月間交渉が続けられた。
五、五月十六日日米合同委員会で米国側は裁判権を放棄し日本で裁判することが決つた所、米国では之に反対する声が急に強くなり之に押されたウイルソン国防長官は同月十八日極東軍司令官に「再調査が終るまでジラードの身柄を日本に渡すな」と命令した。この為前橋地検は急に予定を変え同夜遅くジラードを傷害致死で起訴するに至つた。
六、米国では「ジラード引渡禁止命令」とともに五月二十三日ジラードの出身地イリノイ州議会が引渡し反対決議を行うに至つて米本国内の感情的な世論はいやが上にも燃え上つたその頃日本では社会党基地対策委員会が抗議活動をする等の事があり同月二十九日群馬県議会では社会党議員がジラード引渡し要求決議案を提出自民党議員の反対で否決された。
 米国務省では冷静に事件を検討日米両国及びその他の諸国との関係を考慮した結果強硬派の国務省〔ママ〕を説き伏せ六月四日ジラードを日本側に引渡し日本の裁判に委ねるという決定か国務省国防省の共同声明として発表した。そして翌五日在日米軍は三ケ尻キヤンプ民事部長レーカース大尉を前橋地方裁判所に派遣し早急に訴訟手続を進めることを申入れるに至り裁判権問題は一応解決した。
七、併し一度燃上ってしまつた米国内の感情的な世論は容易に消えずその動きに乗つてジラードの実兄ルイス・ジラードはウイルソン国防長官ダレス国務長官、ブラツヤー陸軍長官を相手どりワシントンの連邦地方裁判所に対しジラードの兵役は二月で終了していることを理由に人身保護令状を申請した。
 此の間米国の世論を煽つた〈アオッタ〉のは一部行政協定反対派の議員や愛国団体在郷軍人団などであつたが一般大衆の心には無知から来る外国裁判所に対する不信が根強く横たわつておりこれに「真珠湾を忘れるな」「米軍人の忠誠を日本の狼に売り渡すな」とセンセーシヨナルに呼びかけついに米国最大の話題にまで作り上げてしまつた。
八、而して連邦地方裁判所は六月十八日「ジラードの発砲行為は公務中のものであり従つてその身柄引渡しは米国憲法により保障された基本的人権の侵害である」とし裁判管轄権は米国側にあると決定した為米国政府はこの決定に従うならば日本としての行政協定に止まらず米国政府が他の諸国と締結している条約はすべて危険にさらされる事となりその国際信用は全く失墜する事は明白で全く窮地に陥る事となつた。そこで米国政府は同月二十日最高裁判所に直接上告して連邦地方裁判所の決定を取消すことを求めると共にアイゼンハウアー大統領自身国会議員を招きそれ迄秘密にされていた事件の真相を明らかにして説得するという努力迄払つたのである。かくて七月十一日米国最高裁判所は全員一致で地方裁判所の決定を取消しジラードを日本側の裁判権に服させるという決定をなしたので米国政府は漸く危機を脱した。
九、更に国務省は世論を鎮める為ジラードと一諸にいたニクル三等特技兵の宣誓供述書を発表事件の真相を初めて米国民の前に公表した。それによるとジラードは警備の為に射撃命令は受けていなかったし、なか等に空薬きようを撒いておびき寄せ二回発砲二発目肩に銃をあてゝなかをねらいうちした。又ニクラ〔ママ〕はジラードから頼まれ一回しか発砲せずそれも銃を腰に構えて射つたと初めうその供述をした事も明白となつたのである。
一〇、一方前橋地方裁判所は米国最高裁判所の決定を俟つことなく七月十一日弁護人と打合せの上第一回公判を八月二十六日午前十時から前橋地方裁判所第一号法廷で開くことを決定した。
一一、此の事件は、上記の如く米国でも問題とされた為米陸軍長官代理等の傍聴も予想され前橋地方裁判所がクローズアツプされ裁判所では公判準備の為第一号法廷に裁判官席尋問台傍聴人席の各上部に煽風機合計三基を取りつけたので、この夏以後他の事件関係者迄余徳を蒙ることになつた。
一二、八月二十六日の第一回公判期日には一般傍聴者を三十五名に限り午前八時三十五分締切迄に希望者三百六十二名で抽籤をなし入廷させた。
 此の間群馬県地評社会党群馬連関係者は「米国にへつらう裁判をやるな」とか「日本の司法権を守れ」などというプラカードを立てて気勢をあげていた。
 抽籤に漏れた人達が是が非でもと云う者もあり一枚千五百円乃至三千円でさばくダフ屋も出たと云われた。
一三、内外新聞の取材本部は裁判所付近の商家民家を借り、又裁判所構内にテントが何組となく張られた。
 他方警察は私服制服警官十八名を法廷内外に配置又県警別館に機動隊一個分隊を待機させ裁判所側は東京地裁より警備員七名の応援を求め廷吏及職員の臨時警備員三十名を正門より公判廷周辺に配置し米軍側は県庁前に大型トラツク二台を置いてキヤンプとの応急連絡所にしたのである。
一四 併し他の大事件と同じく特に通訳入りの公判は興味が永続きするものではない為、三日目以後傍聴席も空席を生じ特殊関係者を除き急激に減少し法廷外の警備員も形式丈〈ダケ〉になつて行つた。
一五 被告人が弾拾いに向け発砲したのは坂井なか丈ではないその直前にも西峰の東側斜面から下りて来て薬きようを拾った弾拾いの小野関英治外二名に対してもその身辺をねらって空薬きようを発射した事実があつた。
一六 米軍では空砲の発射は二十ヤード以内では危険としており空薬きようを撃つことを禁止していた〔。〕事件後被告人の用いた方法で実験したところ八米から十五米の距離で命中率は九五%だつたし貫通力は七粍〈ミリメートル〉、十九粍板を貫通、二十九耗板には約二十三粍突きささる威力を持つて居たのである。
一七 裁判所は犯情に関し「本件は被告人が武器を不法な目的のために不正な用法で使用し人命失うに致らしめるという重大な結果を招いたものであつて必ずしも犯情軽くないものがある。しかしながら本件の誘因としてこれまで関係当局の努力にもかかわらずタマ拾いの者が立入禁止の警告を冒して演習中の演習場内に立ち入り尊貴であるべき身命を自ら危険な境地に挺してまで利欲のためあえてタマ拾いに熱中する一方一部のタマ拾いと一部の米兵とが互いに節度を越えて狎れ合つた〈ナレアッタ〉ことなどが考慮され延いては〈ヒイテハ〉本件のような悪ふざけによる不祥事の発生も予見できないことではないのである。本件当日もまたかかる状況のもとで演習が行われたものでその参加将兵のなかに混入して無秩序に各自思い思いに行動するタマ拾いの側にも非難さるべき一半の責は免れ難くこれを一兵卒に過ぎない思慮の未熟な被告人のみに本件事故の全責任を負わせることは相当でない。また本件演習に当り被告人が支給された小銃がたまたま故障したため副分隊長の某下士官からその携帯の小銃を借り受け、その小銃に通常分隊長や副分隊長のみが所持し兵卒の所持しない手りゆう弾発射装置が装着されたままであつたところからこの武器が被告人をして稚気を起こさせ本件を偶発したものとも認められ被告人がタマ拾いを特に蔑視したとかあるいは被告人が坂井なかの身体に命中するようにねらい射ちしたという証拠は何処にもないのであつて被告人にとつて致死の結果はもとより発射薬きようの命中ということがいかに意外のことであつたかは本件発生直後の被告人の周章狼狽ぶりからも容易に推測することができるのである。また合衆国の軍当局においても坂井なかの遺族の将来を案じてその慰しや〔慰藉〕の方法を講じその承諾さえ得れば相当額の金員を直ちに交付できる用意を完了していることが認められる。そして被告人自身も十分に前非を悔い再犯の虞〈オソレ〉もないと思われるから被告人の年令、性行、経歴環境など諸般の情状を考慮し被告人を懲役三年に処し四年間右刑の執行を猶予するを相当とする」と説示している。

 今回、『米兵犯罪と日米密約』を読んだあとに、上記〔参考事項〕(=事件の経緯)を読み直すことになったが、実によくまとまっていると感じた。すでに『米兵犯罪と日米密約』を読まれている方にとっても、まだ読まれていないという方にとっても、十分に有益な「まとめ」だと思う。【この話、続く】

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