礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

政府は単に国民の公心を代表するものなり(福沢諭吉)

2021-07-04 02:21:29 | コラムと名言

◎政府は単に国民の公心を代表するものなり(福沢諭吉)

 改造文庫版『福翁百話・百余話』(一九四一)には、削除された話がある。校訂者の富田正文が、「当局」を憚ったためと思われる。
 本日以降、そうして削除された話を採り上げて、その内容を検討してゆきたい。
 本日、採り上げるのは、第九三話「政府は国民の公心を代表するものなり」である。創元文庫版(昆野和七校訂)に拠って、まず、その全文を紹介しておこう。句読点は、校訂者によるもので、【 】内は、校訂者によるルビ、〈 〉内は引用者による読みである。

   政府は国民の公心を代表するものなり (九十三)
 人生に公心あり私心あり。例へば古言に、己れの欲せざる所、人に施す勿れと云ふは、不正不義の行はるゝを好まざるの意にして、万人は万人誰れも之を好む者はある可らず〈ベカラズ〉。即ち公心なれども、唯自身の利害に遮られて良【よ】からぬことゝは知りながら時として正義を破ることあり。即ち私心の働く所なり。其極端を云へば、人の物を盜む者にても盗賊公行して自分の物を盗まるゝを好まず、他人を欺きながらも自分の欺かるゝは甚だ不愉快なりと云ふ。内には造悪の念自から禁ずる能はず〈アタワズ〉して、外には広く悪事の行はれざらんことを欲す。人間世界は恰も此公私両心の戦場にして、苟も〈イヤシクモ〉万衆の私心を高尚に進めて其公心と符合するの境遇に至らざる限りは、公心の力を以て私心を制するの法なかる可らず。尚ほ詳に〈ツマビラカニ〉云へば、社会全般の人心に一点の私慾なく、釈迦孔子耶蘇〈シャカ・コウシ・ヤソ〉の叢淵〈ソウエン〉と為りて所謂黄金世界を見るまでは、人為の法律を以て人間の言行を抑制せざる可らず。即ち政府なるものゝ必要なる所以にして、其政府は単に良民の為めに禍を防ぐのみに非ず〈アラズ〉、造悪者も亦共に必要を感ずる所のものなり。左れば〈サレバ〉立国政府の起源同じからず其治風も亦一様ならずと雖も、畢竟〈ヒッキョウ〉するに其国民の公心を代表するものにして、之を代表すれば国民の目より視て自から尊敬の意なきを得ず。是に於てか君主独裁の国に於ては君主一人を無上の尊者として之を仰ぎ、立君定憲の国には君主の外に憲法の尊き〈タットキ〉ものあり、共和政体の国には全く君なくして独り憲法を重んずる等、様々に趣を殊にすれども、何れにしても其尊き所以は民の公心を代表し社会全般の私を制して安寧を得せしむるが故なり。人或は云く、諸国治風の異同に拘はらず、政府は単に国民に代りて其公心の欲する所を実行するものなりと云へば、恰も公心の集合体にして甚だ妙なれども、其公心は本来民心の一部分にこそあれば、国民が特に之に向て敬意を表するの要はなかる可し云々の説あり。自から一説にして学者の悦ぶ所ならんなれども、今の文明の程度に於て人民の智愚を平均すれば、其品格頗る卑く〈ヒクク〉して事物の真理を看破する者は殆んど絶無と云ふも可なり。滔々〈トウトウ〉たる凡俗の群集、これに理を説くは形を示すの優れるに若かず、故に政府の威厳など称して或は其君王の尊きを示し、或は法律の重きを装ひ、兎も角もして外面を張るものは、平均大多数の凡俗をして方向を知らしむるの方便にして、其外面に見る所、鄭重なれば自から之に帰依して知らず識らずの間に服従の念を発起す可し。即ち政法に帰服せしむるの道にして、国安の為めに大切なる事なり。之を喩へば祖先の霊を祭るに、石碑の石を択び、位牌を金にし、大金の証文に紙を美にし、文字を謹むが如し。其外面の装を見て自から尊重の情を催ほす可し。政府は単に国民の公心を代表するものなりと云へば道理に於て争ふ可らずと雖も、之を装ふに或は君王の尊きを以てし、或は憲法の重きを以てし、兎の角も辺幅を張て神聖犯す可らずの習慣を作るに非ざれば、凡俗の安寧を維持す可らず。祖先の霊は天に在るか或は在る処を知らず、石碑位牌の有無は以て之を軽重するに足らず、金の貸借は事実にして、証書の大小美悪は金の多寡に縁なし。道理至極なれども、事を鄭重にするには自から其方法なきを得ず。都て〈スベテ〉是れ凡浴世界の必要なりと知る可し。 (五月十六日)
 
 この第九三話は、「百話」の中では、比較的に短いもので、論旨も明瞭である。ただし、文体が文体なので、慣れていない読者にとっては、難しく感じられるかもしれない。
 末尾の日付は、時事新報に掲載された日を示す。すなわち、一八九六年(明治二九)五月一六日。
 ザっと読んでみたが、校訂にあたった富田正文は、特に下線部を引いたあたりで、当局の目を意識したのではないかと思った。【この話、続く】

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