◎橋本進吉「萬葉集は支那人が書いたか」(1937)
本年四月一三日のブログに、〝神田喜一郎「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」〟という記事を書いた。この「続貂」という言葉は、「ぞくちょう」と読み、ここでは「他人の仕事を受け継ぐことをへりくだって言う」の意味で使われている。つまり、神田以前に、「万葉集は支那人が書いたか」という文章を書いた人があって、神田は、その文章を踏まえて、「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」を書いた、と推定されるのである。
その後、国立国会図書館に赴く機会がなく、神田の同論文は、まだ読んでいない。しかし、先行する「万葉集は支那人が書いたか」なる文章は、確認することができた。国語学者の橋本進吉が、『国語と国文学』第一四巻第一号(一九三七年一月)に寄せた「萬葉集は支那人が書いたか」と題するエッセイである。
それほど長いものではないが、本日以降、何回かに分けて、このエッセイを紹介してみたい。引用は、橋本進吉博士著作集第五巻『上代語の研究』(岩波書店、一九五一)より。なお、このエッセイのタイトルは、カギカッコが付いた「萬葉集は支那人が書いたか」である。
「萬葉集は支那人が書いたか」
三十余年前のことであるが、或高等学校の文科の学生であつた某氏が、国語の時間に萬葉集は支那人が書いたものかといふ奇問を発したといふ話を聞いた事がある。この話は、その人の人がらを知るべき一話柄として語られたのであるが、今にしておもへば、この質問は、その道の学者でもどうかすると閑却しがちな萬葉集の一面を我々に思ひ起さしめるものとして、寧〈ムシロ〉、意味深長なものがあるのではあるまいか。
右の某氏は、萬葉集が漢字で書いてあるのを見てこのやうな質問を発したのであらうが、勿論萬葉集が支那人の著でない事は疑ふ余地が無い。しかし当時の日本人は、文字としては漢字の外に知らなかつたのであつて、この点に於て支那人と同様であつたばかりでなく、又当時は正式な文としては漢文の外になかつたのである。苟も〈イヤシクモ〉文字あるものは多少漢籍又は仏典を学び、文を書く場合には未熟であつても漢文を書いたのである。英文が英語の文であると同じく、漢文は支那語の文である。たとひ日本人が書いたものであつても、必ず支那人が書いたものと同様に、支那人には理解せらるべきものである。当時我国で漢文をどんなによんでゐたかは未だ確かにはわからないが、もし全部音読したとすればそれは言語としては支那語であり(発音の正しくない為、支那人が聞いてはわからない所があつたかも知れないが)、もし現代に於ける如く、音読せずして訓読ばかりしてゐたとしても、日本人が書いた漢文を支那人が読めば、立派に支那語になるべきものである。たとひ未熟な為に破格な文となつて支那人にわからない所が出来たとしても、ブロークンでも英語は英語であると同じく、漢文はやはり支那語の文であつて、決して日本語を写した日本の文ではない。
萬葉集の時代は、かやうな漢文が正式な文として認められ、一般に用ゐられてゐた時代である。教養ある人々は漢語漢文に熟達し、立派な漢文を書く能力をもつてゐたのである。さうして日本人であつても、かやうに、支那の文字たる漢字を用ゐ支那語の文たる漢文を書く限りに於て文字文章の点に於ては支那人と同様であつたと見てよいのである。
勿論当時の日本人は日本語を書く方法を知らなかつたのではない。否、相当巧に又自由に漢字を使ひ、又宣命書〈センミョウガキ〉の如き記法をも工夫して日本語を写してゐる。しかしこれはむしろ已む〈ヤム〉を得ない場合にのみ用ゐたのである。即ち神名とか人名とか、その他特に日本語を用ゐる必要のある場合に限つて、かやうな記法を用ゐたのであつて、さもない所はすべて漢文である。古くは聖徳太子の三経義疏〈サンギョウギショ〉をはじめ、律令〈リツリョウ〉、日本書紀、風土記の類、歌経標式〈カキョウヒョウシキ〉の如きことごとくさうである。古事記は、稗田阿礼〈ヒエダノアレ〉の伝誦せる語を写すのが目的で、これこそ純粋の国語の文、即ち国文であるけれども、なほ漢文式の記法を棄てる事が出来なかつた。古文書の如き実用の文も、また殆ど全部漢文であつて、国文と見るべきものは、数百巻、幾千通の文書の中、僅に〈ワズカニ〉二三十通に過ぎないやうであり、その内容も宣命の如き特に古語を存する必要のあるものの外は、大概は重大なものではなく、不用意に書いたものか又は文筆に熟せざるものの書いたと覚しい〈オボシイ〉ものばかりである。【以下、次回】
三十余年前に、某氏が、「萬葉集は支那人が書いたものか」と質問したことについて、橋本は、「人がらを知るべき一話柄」と書いている。この書きぶりからすると、某氏は、一九三七年(昭和一二)当時、かなり著名な人物だったのであろう。その名前が知りたいところである。