礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山本五十六を論じた大木毅氏の新刊

2021-07-20 05:39:41 | コラムと名言

◎山本五十六を論じた大木毅氏の新刊

 大木毅(たけし)氏の新刊『「太平洋の巨鷲」山本五十六』(角川新書、二〇一二年七月)を読んだ。
 私のような基礎知識のない者にとっては、初めて聞くような話が多く、たいへん勉強になった。特に、終章における次の指摘は印象に残った。

 だが、戦略次元になると山本の評価ははね上がる。いきすぎた戦艦温存、日本の航空戦力整備能力の過大評価といった限界はあるにせよ、航空総力戦を予想しての軍戦備の推進、 日独伊三国同盟は必然的に対米戦争につながるとの洞察、さらに対米戦争は必敗との認識。 どれを取っても、山本の戦略的センスが光る。もちろん、太平洋戦争の無惨な敗北をみたのちのわれわれにとっては、自明のことと思われるかもしれない。しかし、現在進行形で状況が展開しているときに、日本必敗論に到達した者はわずかだったし、それを明確に表明した者はもっと少なかったのである。〈三〇四ページ〉
 
 山本五十六が優れた戦略的センスを持っていたことは、本書を読んで、よく理解できた。しかし、本書の主旨は、サブタイトルが示すように、あくまでも「用兵思想からみた」山本五十六の「真価」であるはずだ。その主旨は、十分に貫徹されているようには思えなかった。
 著者には、山本五十六という人物に対する「思い入れ」があるようだ。そのせいだと思うが、個々の作戦における山本の用兵について論じる際、最初から弁護に回っているような、歯切れの悪さがある。岩波新書『独ソ戦』(二〇一九)に見られた冷徹な分析を、この本に期待するのは難しい。
 個人的には、第五章にある、次の記述に注目した。

 しかも、米内〔光政〕や山本は、五相会議、あるいは中堅層の突き上げがある海軍部内だけで闘っているのではなかつた。日独伊の同盟が実現しないのに業を煮やした陸軍に手なずけられた右翼が、米内や山本を屈服させようと脅迫にかかったのだ。なかでも、三国同盟反対の元凶と目されていた山本は、激しい攻撃にさらされていた。当時、海軍省副官兼海相秘書官だった実松譲【さねまつゆずる】は、「聖戦貫徹同盟」なる右翼団体が、白昼堂々と海軍省に乗り込んできて、山本の次官辞任を求め、あまつさえ「斬奸状」を突きつけてきたこともあったと回想している。
 こうした陸軍をバックとする分子による圧力は、論難のみにとどまらなかった。一九三九年〔昭和一四〕七月、隅田川の堤防を徘徊していた不審者が逮捕された。彼らは爆弾を携行していたばかりか、取り調べで「奸賊」山本海軍次官を含む要人たちを暗殺する計画だったと供述したのだ。
 かかるテロの脅威にさらされるなか、山本はひそかに遺書をしたためていた。彼の死後に 発見された「述志」と題された一文である。 
「一死君国に報ずるは素【もと】より武人の本懐のみ。豈【あに】戦場と銃後とを問わんや。…【中略】…昭和十四年五月十四日」〈一四八~一四九ページ〉

 ここにある「隅田川の堤防を徘徊していた不審者が逮捕された」事件というのは、当ブログが、本年六月七日から一五日にかけて取り上げた「不穏事件」と見て、ほぼ間違いないだろう。
 ここで著者は、「山本海軍次官を含む要人たち」という言い方をしているが、これは「天皇側近、海軍関係者、外務省関係者」と言い換えるべきであろう。大谷敬二郎『昭和憲兵史』によれば、この事件では、湯浅倉平内大臣、松平恒雄宮内大臣ら天皇側近が、「暗殺」の危機にさらされていたという。
 平沼騏一郎内閣時代の出来事である。同内閣で内務大臣の職にあった木戸幸一は、米内光政海相と協議したり、警視総監を呼んで右翼の取り締まりを懇請したりしていたという(大谷前掲書)。同年七月の「不審者」逮捕は、警視庁が、そうした木戸の要請に応えた懸命の努力の成果だったと考えられる。
 なお、「隅田川の堤防を徘徊していた不審者」というのは、この「不穏事件」の首謀者・杉森政之介のことであろう。彼は、浅草区山谷の木賃宿に、同志・野口藤七を訪ねたところを検挙されている。浅草区山谷といえば、すぐ東側に隅田川の堤防がある。なお、この一味が持っていた「爆弾」というのは、杉森が栃木県下のマンガン鉱山で入手した「爆薬」のことであろう。
 いずれにしても、「山本海軍次官を含む要人たちを暗殺する計画だったと供述した」云々の出典を知りたいところである。

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