礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「国家」に対する福沢の覚めた認識

2021-07-06 05:23:00 | コラムと名言

◎「国家」に対する福沢の覚めた認識

 昨日の続きである。『福翁百話』の第九三話のうち、下線を引いた三か所を、もう一度、挙げてみる。ただし、今回は、現代語訳(拙訳)のみ。

(A)〔現代語訳〕そういうわけで、君主独裁の国では、君主一人を無上の尊者としてこれを仰いでいる。立憲君主制の国では、君主のほかに憲法という尊いものがある。共和政体の国には、全く君主がなく、ひとり憲法のみを重んずる。このように、国によって趣は異なるが、政府というものが尊い理由は、それが国民の公心を代表し、国民の私心を抑制し、社会全般の安寧秩序を実現するところにある。

(B)〔現代語訳〕激しく動いている凡庸通俗な群衆、これに対して理を説くには、カタチによって示すのが一番である。それゆえ、国家の尊厳などと称して、あるいは君主の尊いことを示し、あるいは法律が重大であることを装う。ともかく政府の外面を張ることは、平均大多数の凡庸通俗人に方向を教える方便である。政府の外面に見えるものが鄭重であれば、おのずから政府に帰依して、知らず知らずのうちに、政府に服従する気持ち起すであろう。これがすなわち、政府や法律に従わせる道であり、国家の安全のためには大切なことである。

(C)〔現代語訳〕「政府は単に国民の公心を代表するものである」ということは、道理の上で争う余地がない。しかし、政府としての外見を装うためには、あるときは君主の尊さを用い、あるときは、憲法の重大さを用いる必要がある。ともかく外見を張ることによって、政府が神聖なものであって、政府には逆らえないといった習慣を作らなければ、凡庸通俗な社会の安寧秩序を維持することはできない。

 まず(A)だが、これは、天皇機関説問題を連想させるところに問題があった(校訂者が当局を憚らざるをえなかった)と見る。一九三五年(昭和一〇)に起きた「國體明徴問題」では、美濃部達吉ら憲法学者が唱えていた天皇機関説は、徹底的に糾弾された。しかしここで、福沢諭吉は、「立憲君主制の国では、君主のほかに憲法という尊いものがある」と述べている。当然の主張のようだが、当時すでに、これを強調することが許されないような雰囲気になっていたのである。
(B)で福沢は、君主の尊いことを示すことは、政府が、凡庸通俗な群衆を意識して、「外面を張ること」にすぎないと指摘している。万邦無比を誇る大日本帝国の國體に対して、またその臣民に対しても、こういった指摘をおこなうことは、当時すでに許されなくなっていた。
(C)では、「政府には逆らえないといった習慣を作らなければ、凡庸通俗な社会の安寧秩序を維持することはできない」と述べている。この時代の雰囲気は、まさにその通りのものだったと思われるが、それだからこそ、これは指摘してはならないことだったのである。
 総じて、この第九三話では、「国家」というものに対する、いかにも福沢らしいラジカルな視点、覚めた認識、皮肉な観察が目につく。校訂者・富田正文としては、やはり、この第九三話は削除するしかなかったのであろう。

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