礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

福沢諭吉の文章は句読点がない方が頭に入る

2021-07-07 01:41:16 | コラムと名言

◎福沢諭吉の文章は句読点がない方が頭に入る

 改造文庫版の『福翁百話・百余話』(富田正文校訂)や創元文庫版『福翁百話』(昆野和七校訂)は、校訂者の責任で、句読点が施されている。では、オリジナルな文章は、どんなふうになっていたのだろうか。
 さいわい、国立国会図書館のデジタルライブラリーを利用すると、いながらにして、『福翁百話』のオリジナル版を読むことができる。すなわち、一八九七年(明治三〇)七月二〇日に発行された時事新報社版『福翁百話』である(請求記号68-502)。
 これを見ると、総ルビに近い点が、まず目につく、改造文庫版、創元文庫版とも、ルビは、ごく一部の語句に施されているのみである。
 句点(マル)は全く見られない。読点(テン)は皆無ではないものの、きわめて少ない。
 また、およそ段落というものがない。一話、すなわち一段落である。この点は、改造文庫版、創元文庫版にも、そのままの形で踏襲されている。
 以下に、第九三話「政府は国民の公心を代表するものなり」を、時事新報社明治三〇年版で再現してみよう。原ルビは、【 】で示したが、すべてを示したわけではない。

   政 府 は 国 民 の 公 心 を 代 表 す る 
   も の な り         (九十三)
人生に公心あり私心あり例へば古言に己れの欲せざる所、人に施す勿れと云ふは不正不義の行はるゝを好まざるの意にして万人は万人誰【た】れも之を好む者はある可らず即ち公心なれども唯【たゞ】自身の利害に遮【さへぎ】られて良からぬことゝは知りながら時として正義を破ることあり即ち私心の働く所なり其極端を云へば人の物を盜む者にても盗賊公行【こうかう】して自分の物を盗まるゝを好まず、他人を欺きながらも自分の欺かるゝは甚だ不愉快なりと云ふ内には造悪【ざうあく】の念自【みづ】から禁ずる能はずして外には広く悪事の行はれざらんことを欲す人間世界は恰も此公私両心の戦場にして苟も万衆【ばんしう】の私心を高尚に進めて其公心と符合するの境遇に至らざる限りは公心の力を以て私心を制するの法なかる可らず尚ほ詳【つまびらか】に云へば、社会全般の人心に一点の私慾なく釈迦孔子耶蘇【しやかこうしやそ】の叢淵【そうえん】と為りて所謂【いはゆる】黄金世界を見るまでは人為の法律を以て人間の言行【げんかう】を抑制せざる可らず即ち政府なるものゝ必要なる所以てにして、其政府は単に良民の為めに禍【わざはひ】を防ぐのみに非ず造悪者も亦共に必要を感ずる所のものなり。左【さ】れば立国政府の起源同じからず其治風【ちふう】も亦一様ならずと雖も畢竟【ひつきやう】するに其国民の公心を代表するものにして之を代表すれば国民の目より視て自から尊敬の意なきを得ず是【こゝ】に於てか君主独裁の国に於ては君主一人を無上の尊者【そんじや】として之を仰【あふ】ぎ立君定憲の国には君主の外に憲法の尊【たつと】きものあり共和政体の国には全く君【きみ】なくして独り憲法を重んずる等様々に趣を殊【こと】にすれども何【いづ】れにしても其尊き所以は民【たみ】の公心を代表し社会全般の私を制して安寧を得せしむるが故なり人或は云く諸国治風の異同に拘【かゝ】はらず政府は単に国民に代りて其公心の欲する所を実行するものなりと云へば恰も公心の集合体にして甚だ妙【めう】なれども其公心は本来民心の一部分にこそあれば国民が特に之に向て敬意を表するの要はなかる可し云々の説あり自【おのづ】から一説にして学者の悦【よろこ】ぶ所ならんなれども今の文明の程度に於て人民の智愚を平均すれば其品格頗る卑【ひく】くして事物の真理を看破【かんぱ】する者は殆んど絶無と云ふも可なり滔々たる凡俗の群集、これに理を説くは形を示すの優れるに若かず故に政府の威厳など称して或は其君王の尊きを示し或は法律の重きを装ひ兎も角もして外面を張るものは平均大多数の凡俗をして方向を知らしむるの方便にして其外面に見る所、鄭重なれば自から之に帰依【きえ】して知【し】らず識【し】らずの間に服従の念を発起す可し即ち政法に帰服せしむるの道にして国安の為めに大切なる事なり之を喩へば祖先の霊を祭るに石碑の石を択び位牌を金にし大金の証文に紙を美にし文字【もんじ】を謹むが如し其外面の装【よそほひ】を見て自から尊重の情を催ほす可し政府は単に国民の公心を代表するものなりと云へば道理に於て争ふ可らずと雖も之を装ふに或は君王の尊きを以てし或は憲法の重きを以てし兎の角も辺幅【へんぶく】を張て神聖犯す可らずの習慣を作るに非ざれば凡俗の安寧を維持す可らず祖先の霊は天に在るか或は在る処を知らず石碑位牌の有無は以て之を軽重【けいぢう】するに足らず金の貸借は事実にして証書の大小美悪は金の多寡に縁なし道理至極なれども事を鄭重にするには自から其方法なきを得ず都【すべ】て是れ凡浴世界の必要なりと知る可し 

 読点(テン)は、ここにある四か所のみである。しかも、時事新報社版では、この読点(テン)は、活字一字文をとったものでなく、活字と活字の間に置かれたものである。
 ところで、今回、デジタルライブラリーで時事新報社版『福翁百話』を読んで、思わぬ発見をした。この句読点のない文章が、意外にも読みやすいのである。句読点のある創元文庫版よりも、むしろ読みやすく、よく頭に入るという印象があった。
 福沢諭吉の文章は、「句読点がないにもかかわらず」読みやすいということは、ずいぶん前から気づいていた。しかし、今回初めて、福沢の文章は「句読点がないほうが」読みやすい、ということに気づいた。理由は説明できないが、ともかく、そういう感想を持った。そんなことがあるはずはない、と思われた読者には、ぜひ一度、時事新報社のオリジナル版で、『福翁百話』を読んでみていただきたいと思う。
 明日は、いったん、話題を変える。

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