◎映画『頭上の敵機』(1949)と佐貫亦男
昨日の続きである。佐貫亦男の『発想の航空史』(朝日文庫、一九九八年一二月)から、映画『頭上の敵機』(20世紀フォックス、一九四九)について述べている部分を紹介したい。
『頭上の敵機』
シュワインフルトの爆撃
『頭上の敵機』、英語で『トウェルブ・オクロック・ハイ』はグレゴリ・ペック主演の第二次世界大戦武勇伝映画の題名である。このとき、一九四三年(昭和十八年)十月十四日に、 B-17編隊が昼間にドイツ・バイエルン州シュワインフルト市の球軸受工場を爆撃して、発進した二百八十八機中六十機が撃墜された。
この損害率は二一パーセントだが、ドイツ制空権領域に到達した機数は二百五十七機で、それに対しては二三パーセントになる。戦闘で兵力の三分の一を失うと、もはや戦闘力はない。なぜかといえば、残った三分の一は負傷しているので、無傷あるいは軽傷の三分の一がそれを助けないといけないからである。いまの場合、それに近い。したがって、このシュワインフルト爆撃の日を「暗い木曜日」(一九三一年の株価大暴落の日も木曜日であった)と呼ぶ。
私はこの日にドイツ軍占領下のパリに滞在していたので、ドイツの新聞は見ていない。どうせ景気のよいことが書いてあり、ドイツ人はそれをいつものとおり信用しなかったにちがいない。ただ、ドイツ空軍がこのアメリカ空軍の護衛戦闘機なし昼間爆撃を極めて重視し、ドイツ全土とフランス占領地から八百四十機(私がベルリンの日本大使館付陸軍武官事務所で聞いた数)を出撃させ、そのうち約五百機が迎撃に成功した。
なぜシュワインフルトか? それはドイツ勢力圏内で実に球軸受(ローラー軸受も含む)全生産量の約四〇パーセントをここで産出していたからである。この数字は、当時人口約四万人ばかりの中都市に対して異常と見える。つぎの産出地はシュツットガルトで一五パーセント、フランスのパリとアヌシイ合わせて九パーセント、ライプチヒとベルリンで七パーセントだから、これら六都市で合計七一パーセントの産出量であった。一九四三年十二月だけでドイツ航空機工業が消費した球軸受は約二百四十万個で、Ju88の一機(エンジンを含んで)に必要な球軸受は約千個という。こんな数字を総合して、イギリスに基地を持つアメリカ第八空軍参謀部(もっと上かもしれない)が、よし、シュワインフルトをたたけ、それによってドイツの飛行機生産はガタ落ちになると判断したのは当然であった。
それにしては損害が甚大であった。もっとも悲惨な部隊では十五機出撃して二機しか帰還しなかった。それを映画では、当時のドイツ対外無線放送の解説者(ホーホー卿とあだ名されてオックスフォード英語を使ったイギリス人)の声でいきいきと演出した。
「第一航空師団の第三百五部隊のみなさん、なん機帰投しましたか? そう、たった二機で しょう。今朝なん機出撃しましたか? 十五機でしょう。十三機喪失か。ああ(このためい きはホーホー卿のトレードマーク)、これは大きいですよ。百三十人のベッドは今晩空きます。そしてその多くは永久にもとの人間が使うことはありますまい。彼らの肉親に早く知らせてあげなさい。みなさんの涙よりもっと多量の涙が流されます……」
聞いているだれかがラジオのスイッチを切った。
ドイツ空軍がこんな成果を挙げたのは、捕獲したB-17を使って攻撃方法を確立していたためであった。F型までは正面上方(したがって時計の針なら十二時の方向に高く)から銃撃すると、「熱いナイフをバターに突き刺すように」貫通した。アメリカ乗員たちがひるん だのはこればかりでなかった。ドイツ機はいままで見られなかった勇敢さでB-17へ突進してきた。これはおそらく昼間にアメリカ爆擎機を迎撃する初の機会に戦意を燃やしていたためであろう。さらに、東部戦線は完全に不利となっていたが、国内ではまだまだ絶望していなかった。
実際にもシュワインフルト球軸受工場(大きいものが二社あった)は致命的な損害を受けなかった。当時ドイツ側は機械の損害がわずか一〇パーセント程度といったのは、爆弾だけでも約三五〇トン、ほかに焼夷弾多数の投下に対しては小さすぎる。しかも、昼間爆撃だから、投弾数の約二〇パーセントは工場とほかの建物に命中した。しかしドイツはこの爆撃に懲りてすぐ機械を疎開させた。球軸受の生産設備が容易に移転できることは、アメリカ側で十分に予想できなかった。このためー時的に生産は爆撃前の半分ほどに低下したけれども、それは被爆のためよりは移動中のためであった。
したがって、シュワインフルトはこのあとも実に十三回攻撃されたが、実害はすくなかった。ただし、アメリカ空軍のB-17編隊も護衛戦闘機を伴って、損害は激減した。さらに夜はイギリス空軍が爆撃して、この小さい哀れな都市は黒焦げとなった。夜間爆撃だから、球軸受工場を探り当てた機体はわずかなのに、機体損害だけはすくなくなかった。
結論的にいえば、このシュワインフルト爆撃は勇ましかったけれども、映画を作るためのきっかけになったにすぎない。ドイツの工場を破壊するには、移動できないものを狙うよりほかに方法がない。そんなものはあるか? あった。人造石油工場である。もちろん、ドイツもそれを知っていて、厳重に高射砲と防空戦闘機で防衛していた。ところが、一九四四年になると、連合軍の戦力は増大したのに、ドイツ戦闘機隊は弱体となり、ドイツ全土の人造石油工場はほとんど破壊された。ルーマニアから輸入する天然石油も、油田が爆撃され、鉄道と河船の輸送手段が大損害を受けると、もう神々の黄昏【たそがれ】は迫った。
シュワインフルトその後
このシュワインフルト爆撃から十六年たった一九五九年(昭和三十四年)八月に私はシュ ワインフルトを訪れた。戦時中にここへきたことはなく、知っているのは、せいぜい隣の同じマイン河沿いのウュルツブルクまでであった。
シュワインフルトの駅は全部新築であった。度重なる爆撃でけし飛んだからにちがいない。駅の近くから眺めると、大きい工場群が見えた。駅の売店で買った空中撮影の絵葉書にはそれらがSKF社とクーゲルフィッシャー社とあった。被爆の跡などすこしも見えないから、新築である。バスで街の中心へいってみた。ひどく破壊された聖ヨハネス教会堂は、いま足場をかけて職人が徹底的に修理工事中であった。ドイツ人は瓦一枚残ったら、もとの建物を復元するといわれる。市役所も同じことであった。大体町の建物の約半分は戦時中に破壊されたという。もちろん、それらもみな修理するだろう。
あれだけの爆撃を受けながら、市街がまだ残っている事実は、原爆投下でなかったからだ。 原爆を一発食らっただけで、こんな都市が平らになる現実は恐怖である。もう一つ、破壊されてから修復するよりも、破壊されないように、戦争など初めから行わないほうがもっと賢 明だが、過去のドイツ人はそれがどうしてもわからなかったようだ。
まだある。戦争末期(あと半年足らずでドイツ降伏)の一九四四年末に、ドイツの球軸受工作機械台数は爆撃前の一・六倍、従業員数は一・四倍になっていたという。しかし、悲しいことには、もう飛行機を飛ばすガソリンは一滴もなかった。こんなことを聞くと、どこかドイツ人のボタンはかけちがっている気がしてならぬ。もっとも、ドイツ人にいわせたら、日本人の着物にボタンはついていますか、となるにちがいない。【以下略】
かつて、この文章を読んで、たいへんショックを受けた。戦争映画の傑作『頭上の敵機』(20世紀フォックス、一九四九)の舞台となったシュワインフルト爆撃が、無謀ともいえる作戦であったこと、犠牲の割には効果がなかったことを知らされたからである。
しかし、そういう作戦だったからこそ、『頭上の敵機』という映画が作られなければならなかったのかもしれない。
この文章を読んだ後も、『頭上の敵機』は、何度か鑑賞した。以前にも増して、「戦争のむなしさ」を感じされられた。そして改めて、この映画は傑作だと思った。