◎田辺平学と佐貫亦男
当ブログでは、二〇一六年六月に、田辺平学の『不燃都市』(河出書房、一九四五年八月一五日)という本を紹介したことがある。
最近になって、佐貫亦男の『発想の航空史』(朝日文庫、一九九八年一二月)を再読していたところ、そこに、「田辺平学」の名前があることに気づいた。田辺平学(一八九八~一九五四)と佐貫亦男(一九〇八~一九九七)は、独ソ開戦時、ドイツの「同じ下宿」に滞在していたという。田辺は、海軍省建築局嘱託としてヨーロッパに出張中(ウィキペディア「田辺平学」)。佐貫は、日本楽器製造の社員としてドイツに赴き、可変ピッチプロペラに関するライセンスの契約に当たっていたという。以下、引用。
ソ連空軍の威力
ソ連が第二世界大戦中になん機生産したかは不明である。おそらく十万機ぐらいと推定され、ドイツの大戦生産機数(ソ連より期間は約二年長い)約十二万機に近い。
ソ連でもっとも多数生産された機種は地上攻撃機イリューシンⅠℓ‐2シュトルモビク(襲撃機の意味)で、約三万五千機といわれる。これに対してドイツの地上攻撃用ユンカースJu87は生産総数約五千七百機で、しかも、その一部が東部戦線で使われたにすぎない。いいかえると、Ju87の機数はIℓ‐2の生産数の端数のまた端数だ。こんなハナクソみたいな数でドイツ戦車の支援ができるはずがない。空から援助されなかったら、機甲師団がいかに惨めかはドイツがもっともよく知っていたはずだ。それを知りながら自分でその落とし穴へ落ちた原因は、ヒトラー始めドイツ軍首脳のソ連蔑視のためであった。ソ連の兵器は幼稚低級で、ただ数だけだと信じて疑わなかった。
飛行機に関しては、ただ生産機数だけではなく、パイロット十万人養成のスターリン命令を開戦前に実現したといわれる。こんなことは独ソ不可侵条約に基づく技術援助でソ連へ入りこんでいたドイツ人の調査である程度までわかっていたはずだ。ところが、ヒトラーはソ連恐るべしとのレポートを読むと極度に機嫌が悪かった。そこで側近の茶坊主ども(でないと側近は務まらなかった)は情報を選り分けてヒトラーに提出したといわれる。
こんな話はどこまで真実か不明だが、開戦の一九四一年秋に始まった毛皮コートとスキーおよびスキー靴の献納運動は確かにドイツ軍の不用意を証明する事件であった。私はそのときベルリンにいたが、肉親や知りあいがすでに寒くなった東部戦線にいる実感から、ドイツ人は進んでこの運動に応じた。ニュース映画には、白いはでな女性用毛皮コートを着て喜んでいるドイツ兵の姿が出た。
ところがドイツ軍首脳にとってそれは笑いごとではなかった。大軍が東部戦線に釘づけになるとは全然予想していなかった。ドイツ参謀本部の予想では、冬までにまずソ連の野戦軍を壊滅させ、あとはゲリラ対策だけに部隊を残す程度とするはずであった。
ところが実際はモスクワはもちろんレニングラード(サンクトペテルブルグ)も占領できなかった。そして冬は予測したよりも早く到来した。開戦時に同じ下宿にいた東工大の田辺平学【へいがく】教授が、知人のドイツ参謀将校に戦争の見とおしを電話で聞いたら、「冬までに終わる。終わらなかったらドイツの負けだ」と答えたが、その後半がみごとに的中した。
ソ連軍の発想を推定すると、受けた損害ではなく、残った兵力が問題であった。すなわち、 ドイツ軍から見れば壊滅的な打撃も、残存した兵員と兵器が十分なら、すこしもひるまない。 この秋ごろ大島〔浩〕駐独大使がドイツ軍首脳から聞いた話として伝えられたのは、ソ連軍はもう兵器を失ってコン棒で闘っている、というものがあった。こんなマンガは東部戦線の動きにすこしでも注目していれば真っ赤なウソとわかった。ドイツ軍は大きく後退中であった。
いまとなれば東部戦線でドイツ軍がいかに奮戦したかの本がたくさん出る。それを別に否定しないが、結果としてはヤブをつついてヘビを出し、それと格闘して敗れた話にすぎぬ。 ヘビどころか恐竜を誘い出し、それに吞まれた話がこの奮戦記だ。【以下略】
この『発想の航空史』という本は、実に興味深い本で、紹介したい箇所が山ほどある。明日は、とりあえず、同書から、もう一話、紹介しておくことにしたい。